日月神示の岩戸閉めと岩戸開けの精神領域による解説
この経緯はがっつりツインレイのステージに組み込まれている。
日月神示に書かれている内容は、一切合切『精神領域』にて認識することができる。
私たちは日月神示を予言の書とか思っているところもあるが、私たちの精神領域は現実領域と繋がっており、精神が変われば現実が変わるような精神的なメカニズムが生じている。
そのうち、岩戸開けと岩戸閉めに関することが日月神示のなかではなかなかメジャーな話題かと思われる。
岩戸閉めは5回行われている。
- ナギとナミの岩戸閉め
- アマテラスの岩戸閉め
- スサノオの岩戸閉め
- 神武天皇の岩戸閉め
- 仏魔による岩戸閉め
の5回である。
春に負け、夏に負け、秋に負け、冬に負け、そして春には一切合切負けちゃう! みたいなハルマゲドン(最終戦争)のことが書かれていたが、岩戸に関するタイミングのことだったんかな? と今更ながらちらりと浮かんだ。
びっくりばこいよいよとなりたぞ。
春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマケドンになるのざぞ、
早う改心せんとハルマケドンの大峠こせんことになるぞ。引用:日月神示「磐戸の巻」第3帖
いわば、岩戸閉めは戦争であり、最後の春にやってくる最終戦争を終えたら、あたいたちは大峠越すことができる。
さて、この経緯はすべてにおいて『精神領域』で起こり得ること。
この精神領域は、それぞれの神々が担当している精神区分が存在している。そして、岩戸閉めは分離させてしまったことを意味している。
- ナギとナミの岩戸閉め・・・父と母、男性性と女性性の性質
- アマテラスの岩戸閉め・・・主人格と副人格、表と裏の人間性
- スサノオの岩戸閉め・・・責任感の話
- 神武天皇の岩戸閉め・・・神から人になるまでの魂の記憶がないこと
- 仏魔による岩戸閉め・・・死の概念が生まれたこと
という感じになっているのではないかという感じ。
ナギとナミの岩戸閉めとは
精神領域では父と母。男性性、女性性についてを説いている。
岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、
すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、
天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、
わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。引用:日月神示「碧玉之巻」第10帖
まずは訳す。
岩戸閉めの初めは、ナギナミの命のとき。
ナミが『火の神』を生んで、黄泉にいってしまったことがそもそもにある。
神界でのことと、霊界のことは、地上から考えてみると妙なことだから数字だってよく数えられないかもしれないけど、ちゃんとそれは決まった数字で道として成立しているんだよ。
十の卵を八つ産んで、二つ残した。
十二の卵を十産んだこと。
五つの卵を四つ産んだこと。
これは全部同じことだけど、一ひねりしているからね。天地の間には大きなレンズがあって万華鏡みたいになっていることがわかってくれば、だんだんにわかってくるから。
夫神と妻神が、黄泉と神の世と離れ離れになった。そうしたら、夫の神による一方通行になってしまった。これが岩戸が閉められた道理になっている、わかるっしょ?
夫の神が『独り神』となったがゆえに、造化三神とかも男だけで個づくりしている状態。これがもうマジで一方通行だってことはわかるよねェ。
だけどさ、妻だって黄泉の大神となって黄泉の国をちゃんと育ててきた。この夫婦の神が、時がめぐってきたから、千引きの岩戸をひらいて抱き合うような季節がやってきたんだよ! めちゃくちゃ嬉しい時代よ。
同じ名前の神さんがいっぱいでてくるよ。だけど、名前は違うけど働きは逆なんだよね。このふたつが揃って三つになるよ。三が道だつってるっしょ。
ときがくれば、この千引きの岩戸をいっしょにひらけよ~。
こんな感じだろうか。
精神領域としてのナギとナミの岩戸閉め
精神領域として考えるとき、そもそも、ナギとナミとは父親と母親にあたる。だけど、出産のとき、母親は『妻』という女性性を捨て『母』になる。
ゆえに、母から女性性なんて学べないんだよってことを言っている。
だから、黄泉の世界が必要になってくる。
ツインレイのさなか、サイレント期間で私たちは黄泉の国へ冒険へ向かうわけだが、このとき、ツインレイ女性は『自分の女性性』を取り戻しに向かっている。だって、そもそも母から女性性など学ぶことが出来なかったから。
でも、そもそも魂には『女性性』だなんて入っていないと言う話もしている。だって、男の神から生まれたんだから、そりゃ全員『男』でしかないということ。
つまり、この地上における魂は『すべて男の魂』ってことになる。虚しいがツインレイの魂は男女にわけられているだなんてのがそもそも妄想だったってことになる。つまり、ツインレイの男女は『男』と『男』により構成され、そのふたつがツインレイなのである。
だけど、もちろん女性の魂と構成しているわけで、その子たちは黄泉にいって、黄泉のママのところで『女性性』を学んでいらっしゃいなってことになっている。
いわゆるこの世界で、先ずは『男性を学ぶ』ツインレイが存在し、ツインレイと出会ったとき、黄泉の世界へ行くことにより『女性を学ぶ』ことになる。次に『千引きの岩戸』をひらくことになる。
これ、本当に『千引き』なのかな。『線引き』なんじゃないかなと思う。
男女について『男は男』『女は女』という一線をしっかり構築することにより、私たちは『男女』として再会することができる。
私たちの先進のなかに存在している『善』と『悪』、『女性性』と『男性性』という二元性に縛られるのではなく、両親を愛するということにより、ツインレイたちは『犠牲』と『愛』を学ぶことを由来とし、三元性が自身のなかに存在する男性性と女性性の完成と、ツインレイの相手と結ばれる世界線を導くことになるよってことになっている。
そして、その千引きの岩戸は、ツインレイのふたりであけるんだよ~って感じだろうかな。
ここから、人体における染色体は男性がXYで女性がXXとなっているが、魂における染色体は男性がYYで女性がXYということだ。
男性 | 女性 | |
---|---|---|
人体 | XY | XX |
魂 | YY | XY |
天照大神の岩戸閉めとは
精神領域では表裏一体による『本心を隠すこと』を意味している。
次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、
大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。引用:日月神示「碧玉之巻」第10帖
訳す。
ナギナミの岩戸の線引きが終わったら、次は『天照大神』の岩戸閉めがやってくる。
天照はまだ岩戸のなかに存在している。自分を騙している人たちはダマシタ神がでてくるよ。
いよいよ本当の天照大神、天照皇大神、日の大神がそろってでてくるタイミングになってきたとき、ダマシタ神がその前にでてくるよ。
たぶんこんな感じ。
精神領域としての天照大神の岩戸閉め
自分の本心を『岩戸』のなかに多くの人が隠している。
本心を晒すことは、人を傷つけたりもしかねないからだ。ゆえに、自分の本心がわからないような状態となっている。
天照大神とは『主人格』である。だけど、自分を騙すことが大事だったりもする。そうしないと『ダマシタ』はやってこないから。ダマシタを召喚するためには、自分の本心を偽り続ける必要性がある。
んで、そのダマシタがバタッと倒れたとき、自分の本心が駄々洩れる。嫌でも引きずり出される。このときがツインレイのサイレント期間前に生じる。
つまり、私たちは『ずっとダマシタ人格』だったってこと。そのダマシタ人格を倒すためには『自分に嘘を吐き続ける』ことだ。
ゆえに、私たちは今『間違った主人格』状態であり、本当の本心は『ダマシタをダマシタ』状態になってようやく『主人格』たる天照大神が戻ってくることになる。
このうち天照大神、天照皇大神、日の大神という三人の神がいるが、それぞれ三位一体の担当者かと思われる。
子であるキリストは『天照皇大神』、霊は『天照大神』、神は『天照大神』かなと思った。
どれも同じだけれども、三位一体がそれぞれ『ダマシタ』状態になっているがゆえ、そのダマシタをなんとかダマシきって自身の主人格を取り戻していく経緯となっている。
素戔嗚尊の岩戸閉めとは
スサノオは『ツインレイの相手』の人格のことであり、自身の性質の反対側となる相手の話をしている。
次の岩戸閉めは素盞鳴命にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞鳴命は天下を治しめす御役の神であるぞ。
天ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
命をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、
アラフル(現生る)神であるぞ、
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、
取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。引用:日月神示「碧玉之巻」第10帖
訳す。
次の岩戸閉めは素戔嗚さんにすべての罪を着せて根津の国へ捨てたときに生じている。
スサノオのお役目は世界の下の方をおさめる役割なんだよ。
世界の下の方には重いものが積もって固まっているから『積まれている』と見えるかもしれないんだけど、多くの神々が「これは罪だ!悪いことだ!」と、よく理解もせずに豪語したモンだから、スサノオさんは『罪神』と勘違いされた。
これが正しい岩戸閉めだった。
スサノオさんは『あらぶっている神』って伝えているけど、別に乱暴者ってわけじゃないよ。あばれまわって壊しまわっているってわけじゃなくて、勢いがある神(言葉にしがたい)なんだよ。
この国土や根津の国を守って育てている神だよ。怖い神だと思ってたら、めちゃくちゃ失礼だからな。
このことをよく理解してなきゃ、今度の大峠は乗り越えられないね。ナギとナミの絶対的な力を誇る神が根津のお役目を命じたぐらいものすごく大事な神さんなんだからな。
ちなみに、スサノオにも2種類あるよ。ひとりで仕事しているスサノオと、夫婦で仕事するスサノオ。
この2種類は同じじゃないから間違えないように。
精神領域としての素戔嗚尊の岩戸閉め
誰しも罪は背負いたくないわけである。
しかし、罪は発生しているわけである。その罪を『背負わない人たち』もいるわけだ。その罪は一切合切、スサノオが管理している世ってことでもいいと思われる。
精神領域でスサノオは『責任感』を意味している。
いわゆる、私たちは『罪』は『悪いこと』として認識しているが『罪』は『背負うもの』である。
この罪を背負う覚悟があるとき、その罪は『積み』となり、自身の力量となっていく。
最後に、スサノオには2種類いると書いている。
これは、自分自身が生み出した罪を背負うことになる責任と、ツインレイの相手が生み出した罪を背負うことになる責任のこと。
そもそも『根津』という国は存在せず、『天が下』という場所があるって感じだ。最終的に降り積もる私たちの行いは根津に流れ、なかったことにされているが、それではスサノオの役割は担われていない。
スサノオが行っている私たちの精神領域では『私たちの行い』『実行』に対して発生する『積み重なるもの』を背負うことにある。
私たちは、なにかすべてにおいて『罪しかない』っていう感覚があるけど、そりゃ間違っているよ。それは本当に『罪なのか』っていうことの答えを出していかなきゃいけない。
本当の罪は『スサノオをスサノオとして認識しないこと』なのだと思われる。
役割を与えないことは、ナギナミに頭があがんないよー、せっかくスサノオという役割が精神にはあるのに使っていないのが『岩戸閉め』である。
神武天皇の岩戸閉めとは
魂の記憶を岩戸閉めで封印してしまうこと。
神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、
一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、
大きな岩戸閉めの一つであるぞ。引用:日月神示「碧玉之巻」第10帖
訳す。
神武天皇の岩戸閉めは、神なのに人を語るしかなくなったからだ。
神の世から人の世へ移り変わっていくことを、岩戸に隠して『人神』としてたった。これが大きな岩戸閉めのひとつ。
精神領域としての神武天皇の岩戸閉め
神さんとこにいたときの記憶忘れちゃっている。そして自身の魂がどのように生まれたのかをも忘れている。
そして、自分は神の子ではない。人だ! って思いこんでしまっている状態の話をしている。
いわば、ここでは『前世の記憶』とは区切っていないが、今までの記憶などをも封印してしまって、地上にやってきたら『人』になるべく、前世や神の世の記憶を忘れてしまうこと。
岩戸のなかには『今生以外の記憶』がはいっている。そこにブロックがあるからわからない状態になってしまっている。
だから、ツインレイの相手が『ツインレイだ』ってこともわからない状態って感じだし『自分が自分の人生を決めた』とかも忘れてしまっているから不満ばっかりが溜まってしまう感じ。
ちなみにツインレイの場合『ツインレイの相手の記憶』を思い出していくから、ツインレイの相手の人生を自分が決めたみたいな誤解も生じるが、実際は一切合切、自分で決めた人生である。
仏魔の岩戸閉めとは
仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、
クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、
これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。引用:日月神示「碧玉之巻」第10帖
訳す。
仏教がはいってくるまでは、少しではあったけど本当の神道の光がさしていた。
だけど、仏教がはいってきたら、いっしょに仏魔がわたってきて、完全に岩戸が閉められて、クラヤミの世となった。
その後は乱れ放題、やり放題の世となった。これが五度目の大きな岩戸閉め。
精神領域としての仏魔の岩戸閉め
仏魔っていうのは『仏間』のことなのかな、と思った。そうしたら、墓石などに閉じ込められてしまう死後の世界。
そうすると、上記の四つの岩戸閉めが完全に閉じられることになる。
つまり、死により『すべてがリセットされてしまう』ということだ。
- ナギナミの岩戸・・・女性性の未完成状態
- アマテラスの岩戸・・・嘘の人格による成長
- スサノオの岩戸・・・責任の放棄
- 神武天皇の岩戸・・・魂の記憶が持てない
大前提に、この四つが生じてしまう大元の根源は『死』という概念と『輪廻』という概念なのかもしれない。
私たちの魂は、存在し続けているし、そもそも、この世で死んだとしても再び生まれてくることになる。これは魂として輪廻しているとは言えない。肉体は死んでいるけど、魂は輪廻していない。そのままだ。
私たちは『死というリセット』があるからこそ、『女性性がずっと未完成』だし、『嘘の人格を育て続けてまるで成長をしない』状態だし、『責任を放棄し続けている』から力量も増えない。そして、極めつけは『神だったこと忘れちゃったし』ってことだ。
まァ、とにかく。まず『生死』という概念や『輪廻』という概念などは魂には存在していないはず。
しかし、どれも『死』の概念が付きまとっている。
- 女性性の未完成状態・・・女性の死
- 嘘の人格による成長・・・自身の死
- 責任の放棄・・・精神の死
- 魂の記憶が持てない・・・記憶の死
ということ。
私たちは死に続けていた。死のなかで輪廻をし続け、まるで経験などつんでいるようでつんでいない状態になっていた。
私たちは経験をつみにきたわけだが、けっきょく、私たちは経験を積むことが出来ていないのである。
だって、すべてについて『岩戸で閉じている』から。
岩戸閉めと岩戸開けとは何か
岩戸閉めとは、本質的に『魂と精神構造の違い』かと思われる。
精神的なブロックである。このブロックの解除をし続けていくことが『岩戸開け』である。
岩戸閉め | 岩戸開け | |
---|---|---|
ナギとナミ(春) | 魂の女性性の欠落 | 魂の女性性の獲得 |
アマテラス(夏) | 嘘の人格 | 本当の人格 |
スサノオ(秋) | 経験が罪の認識 | 経験を積む |
神武天皇(冬) | 記憶がない | 魂の記憶がある |
仏魔(春にドン!) | 死 | 生 |
()のなかに季節を書いておいたが、ナギとナミによる出会いが『ハルマゲドン』だと思われる。最終世界戦争である。
いわゆる、ツインレイの出会いが『ハルマゲドン』だ。
最終世界戦争とは精神領域で起こり始めていくことになる。最終的に『ハルマゲドン』が『生』になるのか。はたまた『死』になるのか。そのジャッジメント的なことは行われているような気がする。
問われていることは『男性性は確立しているのか』、『自分に嘘をつけるのか』、『経験を罪にしていないか』、『魂の記憶を思い出せるか』なのだと思われる。そして、生きようとしているのか。
最終的に『死という岩戸閉め』となるとき、ツインレイはどちらも『女性性』になり、『生と言う岩戸開け』になるとき、ツインレイたちは男性性と女性性を手に入れることになるとも考えられる。
私たちは今まで『男性性を育てる時代』にあった。これからの時代は『男性性と女性性の共存』にある。
そのために『男性的な人格の肯定』『男性的な経験を背負うこと』『魂の人生をすべて知ること』により、私たちは『男性性を肯定する』のである。そのうえに成立する女性性が確立する時代が『これから』ということだ。
日月神示のハルマゲドンとは
日月神示のハルマゲドンは、これ、岩戸閉めるか、開けるかの攻防戦だと思われる。
私たちは『人格』を創ってしまった。今までの世界線上に『過去の自分』が存在している。
私たちはいつかの時代に『女性性の欠落した人格』であり、『嘘の人格によるダマシタ』をつくり、『経験を罪』として考え、『人であった時代』があった。
このとき、私たちは、岩戸閉めによる人格VS岩戸開けによる人格が戦わなければならない。
もっとも、これを『最終世界戦争』とするのはなかなか面白いなと思う。
世界による戦争は最終的に『統合』されることになる。
私たちは、精神のなかでハルマゲドンを起こし、岩戸閉めの人格を内包した岩戸開けの人格を形成していくことになる。
その前に『岩戸閉めの人格』と『岩戸開けの人格』を分離させ、その後、統合させていく経緯である。このとき、私たちの魂は魂の死を感じるために確かに『最終世界戦争』を起こしているのである。
戦争はなぜ起きるのか、分離しているからである。分離が統合されれば戦争は起きない。統合とはふたつを併せ持つことにより生じる。
私たちの精神は多くの分離を岩戸閉めにより起こしている状態だが、ハルマゲドンにより私たちはひとつの大きな戦争を乗り越え、ひとつの魂へと還っていくのである。