暗闇の世はすべて閉じられた。完了
昨日である2023年6月7日付で、すべての暗闇が閉じられた。岩戸閉めの完了である。
なにをもって暗闇とするのか。それは『心の空洞』なのだと思う。
その空洞に何を入れていたのか、それをあぶりだす必要性があった。
中身が空っぽなのに『はいっていると見せかけている人たち』を私は炙り出した。
中身がないのに、中身があるようにみせかけているフェイクである。
子供の闇を管轄していた友達は、最後の最後に怒っていたことが「親が親ではない」ということ。
子供が子供として真っ当に育たない。その理由は「親の心が機能していない」ということで、このいじめに関する事例についてを終わらせることになった。
親に心無ければ、子の心も死んでいく。
世代ごとに存在する闇があり、分野ごとに存在する闇がある。
私自身は『恋愛』とか『結婚』に関する闇だが、彼くんは『仕事』とか『お金』に関する闇だ。男とは何か、女とは何か。
そして、友達は『子供』とか『親』に関する、親子関係の闇だったように思う。
親が子供の罪を消し、なかったことにする。そんな闇だった。子供とは何か、親とは何か。
それぞれ、色々な種類の闇があり、その闇の主軸となるものを暴き、そしてその闇を見切る必要性があった。それが私流にいうと『無にする』である。
なにを『無』とするのかである。事実を無とする人は心を無としている。
まるで意味がないのである。話をする価値も、話を聞く価値も、理解する価値もない。
中身がないから、聞く耳を持つだけ無駄ということ。
そして、伝えようとしても伝わらないのである。心がないから、話すクチを持つだけ無駄である。
新しい世としての構築は『心を持って現実を生きていく力』である。
現実を見る力とは、心があるから現実を直視することができるのである。
それを『生きる力』と呼び、『生命力』というのだと思う。
人は心があってようやく生きていける。いかなる人生であっても、力強く生きることができる。
しかし、心がないとき、現実を直視することが出来ない。今の自分を最もよく見ることが出来ない。それが闇である。
生きることが出来ない現実がやってくるのだろう。
私はこの決断に狂いはなかったと思っている。
いろんな人の話を聞き、ちゃんと見定めてきた。そして判断をした。
最後の最後に『切り捨てる』ということが必要なこと。心苦しいとも思った。だけど、いっしょにいるほうがお互いにとって心苦しいのだと思う。
現実に戻るとは、暗闇の世を抜けていくということ。
暗闇の世とは『無である存在しないものを存在している』と認識する世界だった。
そして『現実をなかったことにする』のである。
事実は事実、真実は真実。
心とは『真実を受け入れる力』でもあるが『真実を手に取り、生きていく力』なのだと思う。
これが『生きる力』である。
私たちは、これから生きる力が必要である。いかなる何かが起きたとしても、私たちには心のある判断をしていく。
そのとき、神が味方をするだろう。その心に呼応していく神がいるからだ。
『生きる』と『死ぬ』とは、心があるのか、ないのかである。
これから、生きる力が試される時代がやってくる。しかし、もう時すでに『現実を受け入れた人たち』は生きている。
覚醒とは目を醒ますことである。夢から目を醒ましていく。現実を見て、その現実を受け入れていく力が覚醒である。
最後に、計画にご参加の方。ご苦労さまでした。
これからの世は、心が事実となる、現実となる。
心なきものにも『現実』がある。その現実がやってくる。その幻想と、夢と、ロマンの根源にある心という魔が現実となってやってくる。
同じメカニズムである、世界も同一である。しかし、内容は違う。
これが心と魔の違いである。