光と闇(正義と悪)のいたちごっこの精神戦争を終わらせるには。
光(正義)と闇(悪意)の、両方の言い分を聞いたような気がする。そして、両方を吸収する感じ。
だけど、これでは最終地点に至ることはないんだろう。そのように思った。
けっきょく、光は闇が憎い、闇には光が憎い。どっちにしたって二元論に陥っている状態だ。
先ほど、録画していた鬼滅の刃をみていたら、炭治郎が「責任を背負え! 罪を背負え!」とか言いながら鬼を追いかけているわけである。そのシーンをみて、そう。責任をとれ、闇よ。つっている。光は。
けっきょく、闇は『過去の責任を取りたくない』のである。
そして光は闇へ『過去の責任をとれ』と言っている。
いわば、闇は悪であり、光は正義である。光は正しく、闇は間違いである。
なぜならば『責任をとる方が善』であり、『他者へ責任を押し付けることが悪』だからだ。これを二元論と呼ぶ。
とりあえず、鬼滅の刃は物語であることと、少年漫画は『義仁勇』なわけだ。正義・勇気・道理の世界観だ。正義は勝つ、そんな世界観の元にある為、鬼滅の刃はさておいて。
ここにあるのは『道徳』である。いわば、この世の精神的なルールである。
しかし、それはあるようでないものである。それを守るかどうかは個人の自由であり、それを守らないことによっての人生が闇ならば、その闇の人生を歩めばいいのである。
その結果、いかなるものであったとしても、彼らは自分で自分の責任を最終的にはとる形をしている。
光が正義をかざすことがなくとも、闇は闇の結果を得るし、光は光の結果を得ることになる。
二元論たる『光と闇の問題』が生じるが、けっきょく、このふたつのどちらかが存在している限り、いたちごっこである。
光があれば闇がある。闇がなければ光の意味はないってこと。
闇があれば、正義をもった人間が生まれる。ヒーローだ。ここで闇がいることで『得しているのは誰?』ってこと。
自分が良い人間でいるために闇が必要なんだよってこと。それは誰なのか——。私はこの答えを濁す。
私は自分が少なからず良い人間だとも思わないし、悪い人間だと思わない。
無価値だなと思っている。そして、存在意義などない。ただ、自分の人生を一生けん命いきているだけなのに、どうしてこんな大事な場面に巻き込まれているのかも、正直わからない。
だけど、今回は私が審神者(さにわ)のようなので、最後に審神者していこうかなと思う。
けっきょく、どっちもどっちです。どっちが正しいとかもない。
闇は『自分の人生の責任を取りたくない』とか言っているけど、責任をとるとらないって精神的な感覚であって、別にとるとらない以前に私たちは人生っていうなかで『自分を離脱させること』なんて無理な訳で。
昨日の決断は、別の人がしました! だなんて言えない。だから、闇は責任をとりたくないとか言いつつ、責任をとりつづけている状態だ。別にそれにたいしてわざわざ正義をかざす必要性もないと思っている。
つまり、責任問題なんて、普通に生きてりゃ自分でとりつづけている現実がある状態ってこと。凄く当たり前のこと。
んで、人は精神的感覚と人生的感覚が剥離していて、人生的には自分の人生の責任を取っていたとしても精神的にはとれていないことがある。それが闇ね。分離してしまっている、感覚が。
でも分離しているからって自分の人生の経験や経験を放棄することはできないし、自分の実行経験を他者に押し付けることも出来ない。
光はその分離してしまっている感覚に向かって正義を振りかざしているわけだ。
正義をもってありたい自分でい続けるのは結構だが、その正義は闇があるから存在している。じゃあ、闇がいなければ彼らの正義は何になるのか。
これを『意味がない』『価値がない』ってこと。他者が存在しているから自己の価値が存在している。
闇があるから正義と言う光がある。
けっきょく、闇も光も同じことをしているように感じられたのが最終的な感想。
つまり、道徳っていうのは悪があるから存在している。
主治医がいっておったわ。
「真善美について朝の朝礼で校長先生に語られるわけだけど、その裏には必ず悪があるって学生の頃に思ったことがある。」
病院で何を話しているのかについては、今回は差し置いて、私の先生はそんな話をするのである。
そして、悪を知らねば真善美は語れない——ともね。
つまり、悪が存在しなければ、真善美たる正義も存在しない。
私たちは正義であり続けるために『精神的な問題』をわざわざ現実の問題だと、さも同然にそこには『問題がある』として持ち込んでくる。
でも、すべてにおいて彼らは『責任を取っている状態』であることに気づくべきだ。ただ、精神では責任を取っていないかもしれない。だけど、現実的な人体として、彼らは過去から逃れることは出来ない。
なにをしようが、どう生きようが、消そうが、なかったことにしようが。どんな努力をしようが『過去は消えない』。だから、攻める必要性なんてないし、正義を振りかざす必要性もない。どうがんばっても、自分がした行いから逃れることはない。
問題は、道徳を持って正義を振りかざして悪をなくそうとする意識ではないだろうか。
けっきょく、どんなに逃れようとしても、その過去は消えない『事実』だけを光は受け入れていけばいい。
闇はどんなに逃れようとも、過去から逃れられない『事実』だけを闇は受け入れていけばいい。
どっちも同じことでしょ。それが他者なのか、自己なのかっていう違いってだけ。
自分の過去を背負い、他者が過去を背負わないことを悪いことだと思っているのが光。自己の過去は背負えばいい。
自分の過去を背負わず、他者の経験を背負っているのが闇。他者の経験を背負わなければ、自己の過去が背負えるぞ。
つまりね、道徳も自身の教示にはなるかもしれない。けど、それがある限り、私たちは悪とは切っても離せなくなる。
だからこそ、私たちは道徳を捨て去っていくべきなんじゃないかと思う。その思想がある限り、悪が生まれ続け自身のなかに責め続けなければならない存在が生まれ続けるから。
ニーチェが「神は死んだ。」といった理由はここに繋がってくるように思う。
自己と他者の分離ができていないとき、人は自己に集中することが出来ない。自分に集中するとは、他者からの影響を受けないってことだ。それは『反射しない』ことでもある。
道徳っていうのも悪の反射に過ぎないってこと。どこかで悪事が行われたとして、私たちはそれに対して自分のことのように胸を痛めることができる。だけど、それ以上に何かが出来るだなんておこがましい話なんだよ。
自分が他者に影響を及ぼすほどの人材であると言っているようなものだ。自分には価値があるってこと。
だけど、私が思うに。他者がその影響を受け取るかどうかは『別の話』だよね。もし影響があったとして、それが『反射』だったとしたならば、それは悪の助長に過ぎず、闇の悪化に過ぎない。
自分が自分のするべきことに集中しているとき、私たちのまわりに悪は生まれない。そのように想う。それは私たちが善人にならないことだ。
そのとき私たちは『無価値』だ。
私たちは価値のない存在になるとき、善も悪も放棄された世界へ向かう。
「自分がどうあるべきなのか」は、やっぱり『空』であり『無価値』なんじゃないか。
そのとき、私たちの小さな世界により生まれた精神による光と闇の抗争は終わる。