天津罪の読解とアクの大神について
日竝神社を書き替えました。
第三の目ってパチパチと私の目が覚める前に既に開いている。実は目覚めた瞬間が分かる。
それから第三の目では『何か』を見ていて、今日は草原のような景色が見えた。私の第三の目は何を見ていたんだろうか。
起きてから、なぜか『ニャルラトホテプ』である。
ナイアーラトテップ (Nyarlathotep) は、クトゥルフ神話などに登場する架空の神・人物。日本語では他にナイアーラソテップ、ナイアルラトホテップ、ニャルラトホテプ、ニャルラトテップなどとも表記される。
旧支配者の中で唯一幽閉を免れ、他の神格と違い自ら人間と接触するなど、クトゥルフ神話において特異な地位を占める神であり、クトゥルフ神話におけるトリックスターとも言える。引用:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コイツが我等のトリックスターなんだろうな。いわゆる『アクの大神』ってところでオーケーだろう。
ありがたくwikiさんの知識を、簡略して私が当サイトに必要な分だけ、説明書きをさせてもらう。以下、ナイアーラトテップ兼ニャルラトホテプを『アクの大神』とする。
項目 | アクの大神の理解(参考:ナイアーラトテップ) |
---|---|
性別 | 不明 |
生まれ | 大元となる神の祖 |
天敵 | 唯一恐れているのは火の精(日だろうな、心の日) |
生体 | 人間にも化け、狂気と混乱をもたらす。彼が人に与える魔術や秘法、機械を受け取った人は大抵破滅する。 |
さて、この生態について、なんとなくアクの大神の気質なんだろうと言う部分を表にて抜粋させてもらったが、このなかで『なぜアクの大神とカラむと破滅フラグ』になるのかである。
もっとも、この破滅フラグの根源は、人が持つ本質的ではないってところだ。
人がもつ本質は理論ではないし、機械でもない。魔術や秘法で手に入るものでもない。
私たちはいつだって本質を『心』として定義している。その心ひとつがあれば、すべてを繋ぎ合わせていくことができるけれど、そのすべてを繋ぎ合わすことが出来ず、バラバラにしてしまうことになるのが『アクの大神』の仕業ということだ。
それは『心の通わない理論』である。
たとえば、これは『正しい』という考え方、やり方。多くあるだろう。政治なんかでも『こうするべきだ』という考え方のテンプレートが存在している。そしてそのテンプレートによる帝王学にそうことのない判断を、人は『間違っている』と考える。
しかし、本当に間違っているんだろうかってところだ。
その正しさはある一方通行性の独裁政権にしかない。つまり『ひとつの考え方が正しい』という独裁的な思想はある種の『理想』をも生み出すけれど、私たちはよく知っている通り、ひとつの国が壊れていく姿を見ているんじゃないだろうか。
つまりだな。『自分が判断する正しい』は必ず『誰かにとっては間違っている』っていうこと。
専門分野がいくつもある。科学の発展が進めば進むほど、自然主義者は反対をする。つまり、科学主義と自然主義は相容れることがない。だけど、そこに『心があったならば?』と考えてみたとき、ふたつを繋ぎ合わせて『自然を大切にする科学を発達させよう』って考え方が生まれる。
いわば、ここが『心』が生み出されているということ。
私たちは相反する異分野が存在しているから、心が生まれる。その心を大切にしていくってことを重要視する必要性がある。
だけど、アクの大神は『ひとつだけ』なのだと思われる。そして『ひとつだけ』だから『それ以外を排除する』っていう考え方をしている。
そこに存在している白痴とは『ひとつだけ』であることだと思う、つまりワンネスの真逆である『孤独』ね。
私が一番に思うに『ひとりでも生きていける』っていうことが、一番のアクなんじゃないかってところだ。私は最終的に『ひとりでは生きていけない』に行き着いている。
弱い人間である心を持ち続けることは、それは人から『弱い』と言われているものだけど、私は一番に大事にするべき感覚だと思っている。孤独があるから、人は心を寄り添い合わせ、そして力を合わせる。
だから、私は『正しい』と『間違い』を放棄している。
いつだって言い続けてきたけど、私は必ず間違っている。間違っていいんだって。心がそこにあれば私は必ず間違えている。その間違いを私は大事にしようと思っている。その間違いこそが私の心だからだ。私の心こそが悪だからである。
ここから、ひとつの視点を思い出した。
『天津罪』と『国津罪』である。ああ、そう。罪について書きたかった。
この罪こそが世となった。いわば、世が地獄と化した根源をもたらしたのは『アクの大神』であり、その『孤独』こそにあるのではないか、ということ。
孤独を愛するっていう感覚が私にはある。その孤独は多くの人のなかにあって、人の心に寄り添う私はその孤独を食べていたように思う。私のなかは『孤独』でいっぱいになった。それが私の『心』である。
『罪』とは『積み』でもある。
人は積まなくなった。
天津罪について
天岩戸の御岩だった私は、天津罪をすべて経験している。もはやこれは激白になるのだろうか。
天津罪とは、アマテラスがスサノオに散々いじめられて、天岩戸に引きこもる引き金を元に『罪』というものを構成している。
つまり、スサノオは『罪深き存在』である。そもそもこれも記紀による縛りなんだが、あたいはこれを遺したいと思っている。そもそも、あたいはこれ、やっぱり嫌いだと思うから。
天津罪は『心の罪』である。そして、国津罪も、心の罪により派生する罪である。
畔放(あはなち)
田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害すること。
人の心のなかへ手を突っ込んで、激白させること。人を追い詰めること。
人の本心を追い詰めて激白させ、そして『自分はその答えが知りたかったから、追いつめた』という。
本心を言いたくないこともある、その本心で人を傷つけるかもしれない。その優しさによって構築されている土手を破壊する行為を私は許したくない。
その土手を壊し、そして『自分が知りたい人の本心』を聞き、その人は満足を覚えるだろうが、その人の心の田んぼはぐちゃぐちゃだね。
溝埋(みぞうめ)
田に水を引くために設けた溝を埋めることで水を引けないようにする灌漑妨害。
人の心が飢えているとき、人をほおっておかないこと。
心が弱っている人に対して『心の回復』をさせないこと。多くの人が『自分の想い』をうつ病の人に『自分のときはこうだった』と話をする。
私はこれ、心が弱っている人をなぜ人は殴っているのかがよくわからなかった。
心に充電となる水をおくらせず、『人の想い』で田んぼを回復させない。
ただ見守ればいいだけのことである。田んぼが回復するのを待ってあげればいいだけのこと。
串刺(くしさし)
収穫時に他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てて横領すること。
他人の田畑に呪いを込めた串を刺すことでその所有者に害を及ぼすこと。
人の心を奪い、人の心を踏みにじること。人の心を支配すること。
人の心と自分の心が違うからと、人を呪うこと。
人の心と自分の心が違うことがあるのは当たり前である。それが『個人』なんだから。
そして、その人の行い、心は間違っていると否定し、その心を呪い、その心の所有者に対して『攻撃』をすること。
人と自分の心がいつも同じだなんてありえないでしょ? だから人は『人の心』を大切にする。その心を想うんだよ。
人の心を勝手に占領したらいけない。人の心は『他人の物』であって『その心を大切にしない』『なかったことにする』『串刺しにする』。
人の心って、そんなにやすやすと傷つけていいものだったんだろうか。
生剥(いきはぎ)
馬の皮を生きながら剥ぐこと。
人は追い詰めれば『本性』が現れるよね。人の本能が明らかにでてくる。
頭を沸騰させるまでに人は追いつめることがある。
人は皮をかぶっている生き物だ。それが人間だから。
だけど、人を追い詰め、理論で『相手を動物化』させること。相手は生きた心を持っている生き物である。追いつめたら怒る、当たり前である。
弱っている相手に理論をぶつけ続け、その理論で殴り、その理論で『本質的となる獣』とさせる行為である。
逆剥(さかはぎ)
馬の皮を尻の方から剥ぐこと。
逃げる人を追いかけ続け、そして、人の動物性の本性を浮き彫りにさせようとすること。
追い詰められたら人は逃げる。だって『動物』になりたくないから。だから、人は逃げる権利がある。逃げて、逃げて。そして、逃げて『自分が動物にならない』ようにする。
だって、人を攻撃したくない。だから人は逃げる。人を傷つけたくない人は逃げるよ。
糞戸(くそへ)
神事に際して祭場を糞などの汚物で汚すこと。
肥料としての糞尿に呪いをかけて作物に害を与える行為。
人の心を汚していい理由は誰にもない。
人の心に悪心を芽生えさせるように行動し、そして、その心を『悪だ』と言う行為である。
自分の行いを棚上げにし、怒っている人に対して『怒っているあいつが悪い』と、自分の行いを人の心のせいにすること。
ツインレイと天津罪
私はこのすべてを経験した。
最初は『すべての罪を私が背負う』という形になったし、そこにある罪に対し、私は胸を痛めていた。
どうして、と心が泣いていたのを覚えている。
罪について書いているときに涙が出てきた。痛いんだよ、これは。
どうしてそんなひどいことをするのか。人を追い詰めていい理由なんてないし、人の心を暴き、人の心に手を突っ込んでぐちゃぐちゃにしていく人たちが私は憎い。
私はそういう人間が死ぬほど嫌いだ。
心っていうものがないのかと、何度か言ったが、どこにも心なんてなかったんだよ。
心がないからそれが出来るんだよな。知っている。だって『傷ついたことがない』から。傷ついたことがないから、人の心の痛みを知らないし、傷ついたこともなかったことにしている。
心の痛みを知らないから、人の心を痛めつけても笑って『罪』を生み出し、そして『相手の心を破壊していく』のである。
自己を正当化するためにね。
これが人の所存である。私は怒っている、ずっと怒っているのは『心を破壊されること』である。
ただ、この一件だが。
サイレント期間に突入するまでの期間、彼くんは絶えられずにボロボロとなった。
そして私のなかに傷ついた心をいれていなくなった。彼くんはね、心を捨てたの。というよりも、私のなかに心を置いて逃げてしまったのよ。
だから私の心は『傷ついた彼の心』と『私の孤独』のふたつが存在していた。
私の孤独は『人から傷つけられても、その心を受け取る力』だ。『人の孤独を受け取る力』。
私はツインレイの出会いからサイレント期間まで、実に傷つけられ続けてきた。この罪をコンプリートしている。その罪をすべて私は受け取ったし、実際、追い剥ぎにもあって正直、なんつーのかな・・・・。
くっそ身体が痛い自体だった。心が傷つくと私は全身が痛いんだよな。そりゃ岩だから当たり前だと思うが、肚も痛かったし、頭も痛かった。吐いた。人に罪で殴られ、心を破壊され、私は吐いた。
わからないかもしれないけど、私は痛いと思っていた。頑丈だけど、私は痛かった。
ただ、私は御岩だから耐えることが出来た。それが私の『心』なのね。すべてを受け止める心の役割だったから。
だけど私が傷ついても彼くんは守れなかった。だから私は彼を私のなかでかくまうことにしたんだと思う。彼が傷ついてしまった。
私が傷つく姿に彼は絶えられなかった。本当は彼がかぶる火の粉だった。彼が受けるべき精神の攻撃を、すべて私が背負った。
私は彼が傷つくよりも自分が傷ついたほうがマシだった。そんだけだった。
痛いと泣く彼を見るよりも『だいじょうぶだよ』って言ってあげたかった。
私と彼はそういう関係性だった。
だけど、彼は『いなくなった』。彼は私のなかが『人の罪』でいっぱいになっていくと、怖くて堪らなくなった。
彼は私の心だったと思う。彼は傷ついた。本当の意味で私は彼を守ることが出来ていなかった。
私のなかに『罪』を受け入れてはいけなかったのに、私は岩戸のなかに『罪』を入れてしまっていた。
だから、彼は傷ついた心だけを置いていなくなってしまった。
私と彼はひとつだった。そして役割分担が成されていた。そもそもの問題はここにある。
そもそも『私と彼は別の個体』である。役割分担など必要がなく、それぞれが背負うべきものがあるはずである。その背負うものを一報だけが背負うことで成立しようとしていた精神構造がある。
ツインレイである縛りは邪魔だった。
役割が『彼がかぶる精神的な被害をすべて私が引き受ける御岩』と、『精神的なものをすべて守ってもらっている日子』である。
彼は、傷ついていた。私が傷つけば傷つくほど、彼は外に追い出されそうになった。
そうやって『天岩戸』は開かれ、私は破壊され、私は砕かれ、傷つけられ、そして、日子は表にだされようとしていた。
これが天岩戸開けの失敗である。
人を傷つけ、それで『本心』を取り出そうとした失敗である。
サイレント期間の私のなかは『傷ついた心』となった。それは『天津罪』である。私は罪の集合体となった。
だから私が『アク神』でもあった。元来の守り神は傷つき過ぎて破壊され、次に『アク神』へと転じ、罪の集合体となった。
私は『孤独』になった。サイレント期間で私は多くの人と関わったけど、私は誰とも心を通い合わせようとは思っていなかった。私のなかは傷ついた心と言う孤独の集合体だから。
どうして罪が存在しているのか。そこに孤独があるからである。人と人とが心を通い合わせないからである。
人の心を受け取らないから、人の心を感じることなく生きているからである。
サイレント期間で、私は『同じこと』を繰り返している。
だけど、今度の私は『岩の再構築』となった。私は自分のなかにある『孤独という傷ついた心』を守らなきゃいけないから、戦わなければならなかった。
それでも私は優しかったと思う。
あまっちょろくて、そんで、人からの攻撃を私は少なからず、痛いと思いながらも受け取って、それを愛していた気がする。
だって、同じように痛いから、人を殴るんだよね。
自分が痛いことを、人に同じように痛みを与えて、自分を追い詰めている姿を、私は言葉にすることが出来なかった。
ここは地獄だと思ったよ。
だって、私をいじめ追いつめている人たちは『自分を追い詰めている』んだから。なんていえばいいのかわからなかったよ。そして、私が『痛い』って言葉にしないと、人は痛いことを理解していない。
なぜ。
理由は、これ『神が背負いすぎた』んじゃないかって結論がいきついている。
けっきょくね。
人が人の責任を背負わなくなった。自分の心の責任を追わなくなった。自分の心の責任を追わないから、人は『心を感じなくなった』んじゃないか、って思う。
だから、人の心はないのが当然であり、人の心そこにあれば『亡き者』にしようと攻撃する。
優しい人は怖いよね、だって『痛いことを教えてくる』んだから。
傷つきたくないのに、優しい人は傷に触れる。その傷がいえるとき、人は痛いと思う。自分は悪くないって皆いっている。その傷を人のせいにして、自分の傷はなかったことにする。
そうやって人は罪の擦り付け合いをして、積みをもたなくなった。
ちなみに最後の最後、いきついたところ「あたいは間違ってない」っていう、自分の心が生まれた。
あたいのなかには罪が積もり積もっていた。すべては孤独を軸にして生まれている。人と心を通い合わなかったことによる結果だ。それをあたいはすべて手に入れた。その罪をマルッとして『孤独』にした。
あたいはそれを『ひっくり返した』。あたいはもう孤独じゃないし、あたいの『本性』みたいなものを最後の最後には出したかったらしいが、私の本性なんて『ただひたすらに優しいだけ』だったっていうことが分かった。
したらばそれは『徳』となった。
つまり、人の罪をすべて自分のなかに内包して、あたいはひっくり返ることで徳にした。
これからの天津神のお仕事について
私自身、天津神は心の責任を追うべき存在だって思っていた。てか、従来がそういう存在だった。
だけど、私たちっていう新しい世を構築する神たちは『分離している』んだ。
それこそ、ツインレイという形で分離している。どっちかがどっちかを担当するっていう分離をしている。
私の場合、守る、守られるっていうふたつに分離し、私がすべての攻撃を受け取る力を持っている。多くの人をのせることができる鳥船さまになりたかった。
だけど、これから私は『彼だけをのせることがでいたらいい』のかもしれないって思っている。
私は彼くんと宇宙旅行に行きたいだけなんだと思う。いっちゃァなんだが、みんなと宇宙旅行なんて御免なんだわ。
さて定義する。『天津神は人の心の責任を負わない、人は自分の心の責任をとる』。
人は自分の傷ついた心を背負ってね、あたいはもうシラナイヨ。人に押し付けた心の傷は全部戻ってくるよ。
天津神による徳
新しい世にきた人には『徳』をあげようね。
畝徳(うねとく)
田んぼに畔がある徳。強い心。
水徳(みずあげとく)
田んぼに水が常にある徳。優しい心。
返跳徳(かえるはねとく)
田んぼを攻撃するやつがはねてかえっていく徳。跳ね返す鏡の心。
皮剥徳(かわはいとく)
そもそも人の皮なんぞ持たない徳。偽らない心。
獣逃徳(けものにげとく)
獣は勝手に逃げていく徳。人の心。
運子徳(うんこしとく)
他者の汚物により、心を汚さない徳。不介入の心。
こんな感じでどうだろうか。とてもよくできた気がする。
先に、心はうねておきましょォ~。
水は常に、湧いておきましょォ~。
カエルは勝手にはねて逃げていきます~。
偽りがないように、偽ることをやめます~。
偽っている人は勝手に逃げていきます~。動物はいっしょにいられませ~ん。
自分のうんこを先にしておくので、誰も汚せませ~ん。そもそも心は汚れている~。
って感じでしょうかな。先にそうして心をしておく。それが『心の準備』なのだと思う。まずはこれを大前提にしていく必要性があると思う。
んで、この心を育てるために、それぞれの天津神が育てるために管轄を持ってほしいと思っている。
これからは『責任を取ってやる』んじゃなくて『その心を育ててやる』ことが大事だと思っている。