闇とは十六歳の努力をせずとも思い通りが手に入ると思い込んでいる幻想のこと。
「あなたには言われたくない。」
闇側の存在の根源にある意識は人に指図などされたくない。私は何度か言われた。じゃあ誰ならばいいのか。
自分に文句を言う人間は片っ端から否定して、そうやって自分は一番偉い立場にありたい。それが闇の意識である。
私は過去に一度もこの言葉を言ったことがない。
お高くとまったその精神は、他人の人生に文句を言い、自分の人生を常に正当化しようとはしても、自分の人生を振り返ってもひとつも『実り』がないわけである。
けっきょく、なにも成さなかったのである。だからこそ、その何も成せなかった人生をツインレイへ着せ、自分だけがいい人生を送ろうと考え、奴隷を生み出すような意識がある。
「子供が欲しいんだよね、だから結婚をしたい。」
そんな風に言う友人へ私が放った言葉は『男は種馬じゃねえよ』である。手厳しいだろうか、私は正義の塊だった。
そもそも女性が子供が欲しいから結婚をしたいとは、男性を『道具』として扱っているのである。私はこの意識が好きじゃない。
男は種馬じゃない、そこに人格があり男性としての意識がある。その意識を好きになってようやく私たちは対等な恋人となるのではないだろうか。
女は『子供を産む道具じゃない』と騒ぐわりに『男を種馬扱いして道具にしていること』には何ひとつ着眼しない。
私は同種である女として恥ずかしいと思っている。
同じようなことがツインレイの間でも起きている。
ツインレイは私たちを『幸福にするための道具』なのだろうか。
それはアリストテレスの『生命をもつ道具』と奴隷を比喩したのと同じことではないだろうか。ねえ、いつの時代の思想だよ。
私たちは女性として、男性として、どれだけの魅力があるんだろうか。私たちは『人の人生を極つぶしにして、自分だけがより良い人生を送る』だけの価値があるんだろうか。
私は、自分の価値を見だせなかった人である。だからこそ、私は自身を『ゴミクズ』と呼んでいた。そして、そんな風にしていられる自分のことが大好きなのである。人のことを奴隷にもしない、人のことを道具にしない、人を活かそうとする意識を育てる自分が好きだ。
いつか出会う男性のために、私は『男をたてるだけの女』になりたいと思っていた。
ツインレイは、自分に幸福を運んできたものだったろうか。
私のツインレイは、なにひとつも持っていない男の子。そして、横顔の素敵な男の子に恋をし、すべてを捧げる覚悟をした女性の物語である。
自分にとって見合うモノしか手にはいらない。
だけど、自分にとって『それ以上のものが手に入る』とロマンを語ってくれるのがツインレイである。
しかし、私たちは『自分にとって見合うもの以上を手に入れるだけの徳がある』と、どうして思えるんだろうか。
D・J・サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』、そんな世界観のような気もする。
十六歳の男の子が学校をやめ、きまりが悪いから家に帰れずにプラプラと社会を見に行く話だ。
彼は世のなかの汚い大人になりたくないと言う、すべてが嫌なのである。
そんな思春期のシーンで、彼は無名な存在である自分を受け入れられないでいた。
自分はすごい人間で。自分はなにかを成し遂げて。自分はお金持ちになって。
だれかよりも優れ、だれかよりも高い位置から見下ろし、誰かよりも『持っている』と。
そんな夢とロマンをツインレイに投影し、いつかは王子さまがやってくると信じ、シンデレラストーリーに夢を見ては夢から目を醒ますことが出来ないでいるのは誰だろう。
私はそんな世界に足を突っ込んでは、尚、やっぱりそれは間違っている。
それは違う、それは間違っていると言いたい。
ツインレイは私たちを幸福にするための生命ある道具じゃない。私はそんな存在になりたくない。
現実はどうだろうか。なんにもない無名の存在が私たちである。
社会の駒のひとつであり、別に影響力だってない存在だ。歴史上の暦にも乗ることがない、そんな小さな存在だ。
私は、そんなちっぽけな自分を受け入れている。何も成せていなかった自分を振りかえって思うんだよ。自分だし致し方なし、とね。
ちいさな幸せだってあるじゃないか。そこにだって、私たちは幸福を見つけることができる。それが人だろう。
だけど、闇は違う。成せていない自分をなにひとつ受け入れることもなく、夢のなかを今日も彷徨い歩いている。
自分の十六歳の夢を抱え、その夢を叶えることが出来ていない自分を受け入れることが出来ずに、ツインレイという幻想に夢を乗せて、今日も砂漠を歩いている。
人よりもより良い人生を、人よりもたくさんのお金を。
人に羨ましがられるような人生を——。
望めば望むほど、喉がカラカラになっていることに気づくこともなく、彼らは砂漠のなかを歩いている。
闇とは自分に憑りついた幻想だ、妄想だ。
十六歳が抱いた努力せずとも手に入ると思う幻想のこと。砂漠を歩いていることにすら気づかせない走馬灯。
私はひとつひとつを手に取って向き合い、しかし、どれも最後には捨ててしまった。チープな幻想だからだ。
私にとってはどれも必要がないものだ。私が欲しいのは『現実』だ。そして『真実』だ。
スピリチュアルもロマンスもいらないよ。私が欲しいのは叶うにはまだ時間が必要そうな、心の支えが必要そうな青年の優しい夢だ。
そこに必要なのは私の愛でもない、精神でもない。必要なのは日常だ、そして生活だ。足るを知る心だ。
私が欲しいのは取り分けて普通、水のような日常だ。毒にも薬にもならない、どこにでもあるようなひっそりとした普通の人生だ。
私はそんな人生を彼と送りたいと思った、普通の女性である。
それがこんな壮大なことをしているだなんて、意味が分からないけど。
それもひとつの過程に過ぎず、私はやっぱり『彼にとって、たったひとりの女性』でありたいと思っている人だ。
能力がタンとある女性にはなれないけど、彼が望む私に私はなりたい。
だけど、それは出会ったときの私だった。
かえりたい、彼という家にかえりたい。
ポケットにたくさんのお土産話を携えて、おうちにかえるよ。
君に話したいことがあるんだ。