ツインレイの光と闇の抗争の終着点について
女は妻になればよく、母になると毒になるのだろうか。
そんなことを考えたことがある。しかし、私は『女』になろうとしている。
この光と闇の抗争では、エディプスコンプレックスが関係していると思うが、同時にこれは『旧世代のルール』と『新世代のルール』の戦いだったようにも思える。
旧世代のルールは『母の影響強め』で、母は自分の人生へ子供を乗っけることで満足を覚えようとする。
ちなみに私にとっての母とは『旧世代』である。旧世代そのものが母ゆえに、旧世代の路線から脱却していくことが私にとっての自立にあたる。
いわば、今旧世代と新世代の交差点であり、このときに二極化世界という分岐が起きている。
私はこの新世代の立ち上げのひとりとして『旧世代から新世代へ組み替え』を行っている。
その経緯で私は「母」という存在に出会っている。それが私にとっての闇である。いわば旧世代ルールを全力で持ち込まれるのである。
私は神話になぞり、旧世代ルールを学びながら新世代ルールを構築していくことになったが、この経緯で『私の母は黄泉にある』ってことも学んだ。
私たちの母とは『孤独』である。それが『闇』である。
私はこの孤独を抱いて生きることが出来た。ナミは子を成し、また支配し、心を育んでいく経緯で『人を育てる』ことをしていた。そのために必要なものは『孤独』だったのである。
孤独であれば、人は人と繋がることができる。
さびしいから人は人と結ばれ、家庭を築き、さびしいから子を生み出し、子を愛するのである。
だけど、私は理の根源となってしまっている『負による善』という思想が好きではない。
いわば、孤独があるから彼らは繋がっている。そんな世代が神世七代なのである。
私は神世八代となるが、私は『孤独であることが悪いことだから誰かと繋がりたい』だなんて思っていない。
私はそもそも、その孤独を愛していたのである。孤独であることを胸に抱き、そして孤独であり続けたがゆえ、私はこのサイトを構築しているし、私は長い時間を読書や思想の構築に時間を当てている。
孤独であるとき『孤独にひたる時間』ということがなかった。さびしいと思うよりも、とても忙しい生活をしていたように思う。
だからこそ、私はツインレイの彼と、ふたりで孤独を抱えて出会っている。世界の裏側で。
私はこの『孤独があるから人と繋がる』ことを別に否定したいわけではないが、私自身はこれを取り入れたいとは思っていない。
私はこの思想を本心だとは思わないからだ。そこに心があってこそ、私たちは本当の意味で心が満たされるのだと考えている。
いわば、孤独という虚しさを埋めるために繋がる関係性。それは本当に『心が満たされているのか』ということだ。
私はそれを『心が満たされた』と感じたことがない。
私はそれを『孤独を余計に助長させるもの』として捉えて一時しのぎにしかならず、私は孤独を『孤独』として抱いておくことにしたのである。
私はナミという母を利用して、誰かと繋がって一時的な満たされた時間を過ごしたいとは思っていなかった。
だからこそ、私は『孤独をそのまま』にし、私はナミという母と仲良くしていたって感じだろう。それはナミの力を利用しなかったとも言える。私には必要がなかったからである。
そして、私が孤独であることを問題視してもいなかった。そもそも私はその孤独の時間で多くのことを成したと思っている。
私は本当につながりたい人たちと繋がり、それ以外を特に必要とは思っていなかった。だけど、私と繋がりたいと思ってくれている人たちとは向き合い、話をしていた。
私たちはこの『闇』を多くの場所に見つけることになる。
私は母と言う支配の闇をみつけた。なぜ、母の言う通りにしなければならないのか。なぜ責任転嫁をされるのかがわからなかった。
そもそも私は『自分の人生を生きていない』とまで言われていたらしい。どうでもいいことはたくさんあったが、私は我が道。
ちなみに私はダイレクトに我が道を進んできた人だと思っている。私は自分で道を開拓し、その道を進んできた人だ。
なぜ、私は「自分はどうしたいのか」と聞かれていたのかがわからない。
私はずっと自分がしたいように生きているのだが、どうしてそんな問いかけをされるのかがわからなかった。
母が買ってきたパンツをはくからだろうか。
よくわからないんだが、母はパンツを私に『つい』買ってしまうんだそうで、私も「もったいないからはくよ」といって、鬼滅の刃のパンツをはいていた。
とくに誰かに見せるわけでもないので気にも留めていなかったのだが、それはそんなに非難されることなのかがわからないのである。
ちなみに今は自分で買ってきたミッフィーのパンツである。私はこういうキャラものの綿パンツが好きなのだ。(別に鬼滅の刃のパンツも嫌いではない。私のパンツだとわかるのと目立つので良い、けど安物はゴムがすぐゆるんでしまうね。)
ちなみに姪っ子たちも『鬼滅の刃のパンツなどはきたくない』と非難され、そもそもその非難を聞いた後に「私、はいている」と言えなかったのは、散々けなしたあと、そこにそのパンツをはいている人物がいるとか姪っ子たちも決まりが悪いと思ったからである。
割と私は色々なところで適当なのと、どうでもいいことはほったらかしのところがある。
そういった私の現実世界での適当なところと、我が母がまだ『母をやりたい』っていう気持ちを汲み、そのままにしていることはそんなに悪いことだったのだろうか。
正直、母が勝手に洋服を買ってきたりなども多くあって、たびたび「そろそろ、私は自分で服が買いたい」というと、落ち込むからそんなにきつく問い詰めることもなかった。まだ母をやりたいんだなと思った。
私は自分を通さない。人が善意だと思って行っていることを批難もしない。それぞれ『私にしてあげたいこと』があって、母は私に対して『母がやりたい』のである。
なら、そうしてくれていいと思っていた。私はやりたいことをやっている。母は『母』をやりたいと思っているならば、やってくれればいいと思っている。(ただ、さすがに過ぎたることは咎めるが、私の小遣い範囲であれば別に服を勝手に買ってくるぐらい、別にである。服を選んだりするのが好きなんだろうね。)
母が母でいられる時間など、そうは長くない。私は母を『母にしてやれる存在』だから、私は母を母とし娘として存在している。嫌でもいつかは私が母のパンツを買いに行く日がやってくる。
それまでの時間、母が私のパンツを買っていても別に問題はないと思っていた。
後悔がなくなるまで母をやり切ればいいと思っている。
だけど、なぜか闇からすると、これは批難のまとであり『自立していない女』ということになっている。
なるほど、これは自立ができていないのか。と思ったが、たんに私がめんどくさがりなところもあるような気がする。
私はずっと考え事をしていて、パンツを買いに行ったときも、パンツを眺めながら『0は無とイコールではない』とか思想に耽りすぎて、自分のパンツのサイズを間違える人間である。
人は世でいきるのに、パンツを買いにいく向き不向きがあるんじゃないかって思う。私はパンツを買いに行くのに不向きな人間だと思う。思想に耽ってパンツのサイズを間違えてしまうんだから。
私は自分が自立しないようにして生きてきた。
闇は『自立』を頑張っている気がする。私は逆。自立しないようにして生きている。
私はうさぎだからだ。寂しがり屋。誰かがいないと生きていけない存在でありたいのである。そういう自分が嫌いじゃないし、私は誰かに何かしてもらって『ありがとう』っていえる自分が好きなんだ。
だからそうやって生きている『パンツも自分で買わない自立の出来ていない女』として非難されたということは、私の元来の目的は達成されたような気がする。
そもそも私は『自立が出来ない女』になりたかった。
私は誰かと一緒に生きていける人になりたかった。そのために私はすべてが一人で出来る存在になりたくなかった。
私にできないことがあって、それを手伝ってくれる人たちに『ありがとう』と感謝して共存していきたいと思っていた。
だから私は『私にできること』をやっている。
家の事柄での書類やら、ITに関することはほとんど私が処理している。そういう分野が得意だからだ。
私は闇の『孤独』を回避するために、他人を利用したかったわけじゃない。快く皆で生きていける環境を構築したかった。
それはやっぱり『自分が苦手なことは人に頼む』ことだったり『自分にはできることをやる』ことだったり。
そして、人が何かしらのお節介をしてきたとしても、それを受け取ることができる人になりたかった。
だけどやっぱり過剰なときは「うにゃ」とするときはあるが、それでも一応はやんわりとことを済ませるようにしている。
角を立てたところで、どうしようもないじゃない。
私の母の世代って『母という役割が生きがい』でもあって。
私はそれを否定する人にはなりたくなかった。その部分を否定してしまったら、今の私はいないからである。
そして私は母に『母をやめろ』とはいえない。母という生きがいを捨てろという無情な人間にはなれないのである。
だから私は、女になるんだと思う。
女であれば、いかなる形にも自分を変容させることができる。妻にも、母にも、そして娘にもなれる。
私は『闇という孤独』を持っているけど、孤独だから何かの行動を起こすことはないと思う。
それは今までもそうだったし、これからも変わらないと思う。私はずっと孤独だと思う。それが『私』というアイデンティティーを支えている。
だけど、自分らしくいられたツインレイの彼は手に入れたいと思っている。それは私が孤独ではなくなるってことにも繋がっているけど、私は『私らしくいるために』必要だと思うから。
私が人生のなかで、本気で言っている初めてのワガママが「あれが欲しい」の『あれ』が彼なんだよな。
闇は現実面で非難をしてくる。きっと『現実的な自立』を促すのが旧来のルールなんじゃないだろうか。だけど、私はずっと言い続けているが『自立なんてごめんだよ』ってこと。
私はずっと自分がある。私は我が道を進んでいる。だけど、現実的な部分ではブレブレに見えるんだと思う。
上記の通り『自分の想いを通していないから』、自分の人生を生きていないように見える。
だけど、私は心の道理を持って生きている。私はそうやって生きていて、これからもそれは変わらない。人と人とが共存していくために私は心を持って生きていく。
ちなみに闇が言っている私個人への攻撃、色々多様にわたって複数人からいただいとったけれども「どうしてそれが悪いことなのかがよくわからない」っての、いっぱいあったよ。
それは私が表面的な部分でのことをあんまり重要視しておらず、精神的な部分の表面的ではない部分を重要視していたからなんじゃないだろうか。
人には向き不向きがある。私は闇の生き方は不向きだった。それだけの話だと思うんだが、それをなぜ咎められなきゃいけないのかもよくわからなかった。
出来ないことが出来なくて、どうしてそれが悪いことなんだろうって感じ。そんなに非難されなきゃいけないことなのか?
逃げることがどうして悪いことなのかもよくわかっていなかった。
自分と違うのであればほっとけばいいじゃんって思うんだが、闇は母だから過干渉なのだと思う。娘は同じ存在でなければならないってこと。
私はそれを終わらせて、新しい世代を構築しようと考えていた存在だっただけの話なんだろう。
闇こそが『人の人生を歩んでいた』ようだなと思っている。母は子に自分の人生を歩ませようとする。私はその支配からの卒業である。
私は闇を持っているが、面白いぐらいに私は我が道を歩んでいる人。闇からすれば『めちゃくちゃコイツ、道を外しまくっている異端児』レベルで急いで元の場所に戻してあげなきゃって闇である母は思うんだろう。
ごくろうさまである。だけど、私はずっと自分の人生を生きているよ。いつだって私は『私』だったし、人格が入れ替わろうとも、そのすべてが私だったし、私はそれでいいと思っている。その人格を内包するって決めているのも私だし。捨てた人格もあるしね。
その決断はいつも私。
自分が何をするのかの決定権はいつだって私にあった。私はいつもやりたくないことはやらないし、やりたいように生きてきた。
だからこそ、闇に与えられる人生を歩むことはない。母の道を進まない。
私の生き方は不安定にフワフワと自立していないようで、私は『ものすごく自立している』っていう矛盾をはらんでいる。
自立しないという自立をしているってだけ。自ら危険に足を進めるバカなんぞおらんかもしれないが、その方が皆が幸せだし、私も幸せだからそうしている。
そんだけ。なぜそれができるのか?
そんなん、自分の人生なんていくらでも自分で決められるからだよ。途中で方向転換したくなったらすればいいし、別に今時分で決定を自分から放棄しているわけではないから後悔もいない。今、私はこれが『私を含むみんなの幸せ』だから、そうしている。
私は私だけが幸せで、誰かをないがしろにしたりしてまで自分だけが天下を取って成立したいだなんて考えていない。
みんなで幸せになれる道は必ず心が教えてくれる。
私は矛盾していると思うよ、自分の存在が。いいじゃない、そういう人間が一人いても。