ツインレイは分離が終わると拒絶反応をするのか。拒絶は恋とよく似ている。
私は、ずっと自己の精神の探求をしていたにすぎない。
幻想のなかにいた私がみる幻想を追いかけていた。それは彼の姿も同じく幻想である。彼は幻想だ。
私は幻想者である。幻想をみていた人だ。意味がない存在である。
すべてにおいての事実を受け入れる覚悟を持って生きることは、ずいぶん前から出来ていたような気がする。
ようやく最後の最後まで私のなかの精神構造を定義しきれたような気がする。
神の世も、幻想世界も、私にとってはすべて自分の精神世界である。その精神に『何を持ち込むのか』『いかなる精神であろうか』という考えを練りだしていたような気がする。
彼を拒絶している。
少なからず、この数年間で、あの頃の私は失われてしまった。出会ったときから愛していると思えた、その心は今のところどこにもない。
そして、当初の私に戻ったとしても私は彼を拒絶している。私は彼を拒絶している。心が拒否している。
あのとき、彼は私だった。だから私は彼といっしょにいれた。私だと思えたから彼と私は一緒にいることができた。
でも、もう彼は私ではない。だからこそ、私にとって彼は『異物』なのである。その異物に対して私は『自己ではない』と拒絶をしているような気がする。
いわゆるアレルギー反応のようなもの。それはアナフィラキシーショックのように拒絶している。全身でね。
このサイトのことも拒絶しているし、少なからず、この3年間に一緒に過ごした人たちに対しても、私は一切合切の拒絶をしている。
ツインレイというその言葉に対しても、ツインレイに属する人たちに対しても、私は拒絶をしている。
私は『自分以外』の存在に対して拒絶をし、そして、私は『私』というアイデンティティを構築しようとしている。
私は誰でもない。そして、ツインレイの彼でもない。そんなことが言いたい。過去も自分ではないとも言いたいのかもしれない。
これは私ではない、と。私は言いたくて拒絶をしている。そうやって幻想を拒絶している。
拒絶は恋によく似ている。
つまり、好きってこと。私はこのサイトも好きだし、ツインレイという概念も好きだし、この三年間に関わった人たちのことも好きだし、幻想も好き。過去の私のことも好き、自分のように感じられない自分が好き。そして彼のことも好き。
私は異物を好きになりたかったんだな。だけど、どう頑張っても異物は相容れないものでしかなかった。
だからこそ、私は異物を愛していたんだけど、異物は異物で、だけど、愛さなくても、もう好きになれる。
いや、好きってわけじゃない。好きになりたい、好きじゃない。
全力で拒絶したい。今度は自分とは真逆の存在を好きになりたいから。そして自分のすべてを愛したい。
異性とは異物、自分のことのように愛することをし続けてきた。だけど、もうお終い。私は異性を好きになれる。代わりに嫌いにもなれるけど、そうやって私は人と自分の相性を見極めて生きていこうと思う。
人はどんなに頑張っても自己都合的にしかとらえることが出来ない。だからこそ、自分とは違う存在と関わっていくなかで自己都合的にならないことにぶち当たりながら、度量を広くしていくところがある。それが愛だ。受け取る心だ。
私は多くの人と関わっては、自己都合というものをすり減らしては、人を尊重する生き方をしていたように思う。
だけどもう、私は世界制覇をした気分だ。もう丸ごとのすべてを愛し、受け入れ切った。だからこそ、私は拒絶を導き出した。
私はこの三年間を拒絶したい。それは私が愛した分だけ拒絶をしている。
私は多くを愛した。受け入れた。そして、私の『心』にした。その愛とは『受け取る心』。つまり、人からの心を私は受け取り続けていた。いかなるものでも私は受け取っていた。
最後は受け取ったがゆえに拒絶する。
これにて私のツインレイの分離は終了になるだろう。拒絶がやってきて、ツインレイの分離が完了だ。
悲しいかな、これがツインレイの愛の結末だ。
愛の裏には犠牲が存在していると気づいた。間違え続けたからだ。
そして、心の裏には『無』『空』という何もない無限の空間が広がっていた。間違え続けた結果、何もなかった。
だけど、出会う人、出会う人のの心を受け取り続け、向き合い続けれた先にあるのは『受け取らない心』という拒絶の世界が広がっている。間違えていたからね。
もう満たされた。私の心はこの三年間で多くの心を受け取った。
そして、その心をすべて受け取っていたがゆえに、私は拒絶する。その心を拒絶する。違う、間違っている。そのように思う。
私はそれらに対して、間違っていると思っているから愛していたってこと。
でも、私はその間違っていることを肯定していたかった。間違いがなければ私たちは発展することが出来ない。人は間違いのうえに成立している。間違いがあるからこそ人は経験をつむ。その経験を肯定したかった。
そんな人たちを私は好きになりたかった。
それこそが葦原の世界だ。成長する世界である。それが私の心の世界、小宇宙。
私は愛したものをすべて拒絶する。愛するのは私自身だけでいい。
そして、間違いを糧に成長する人たちを、間違いを糧に生きる自分を好きになりたい。萌ゆ生きる人たちを好きになりたい。
人はいかに生きるか、ただそれだけである。
私はとてつもなく不器用だったと思う。ただ大事にしたかった、人を。ただそれだけのことがなかなか難しい。
でも、ちゃんと実るものだなと思う。自分の思うやり方でやり切るしかない。やり切った結果、ちゃんと結果がでた。私はやっぱり間違えていたけど、正しい道に戻ってこれた。
間違えなければ、自分が求める正しさに気づくことも出来ない。悪があるから善がある。善であり続けようとする限り、自分の悪には気づけない。
人は必ず間違えている。私は常に間違えている。その間違いを『正しい』と誤解している人が多い。だから私に対しての反発も生まれる。正しいと思っているから否定したいし、肯定したい。
私は神じゃないんだよ、答えなんて知らないよ。
私は間違えている、その事実を受け入れてほしい。私がみそっかすで、まるで価値のない欠陥品である事実を。
勾玉。曲玉。
曲がっているから良い、魂は曲がっている。
神社も産道が本来は曲がっている。
子宮の卵巣は横にあるでしょ、葦原の種は曲がっている場所にある。つまり、間違えろよってこと。間違えなきゃ種は手に入らない。
間違えなきゃ、私たちは子宮に入れない。子宮は育て育む場所。間違えた結果に得た結論は、子宮に種をまき育むことができる。成長させ、それが人となりとして成長していく。