『真実のツインレイ』が影により罪を押し付けられて再会ができていない件について。
私は彼とやっていくのに、相手に何も望まないという無願がほしかった。そして、差別意識をなくすという無相がほしかったような気がする。
そして、どちらも『空』という基盤の思想がなければ、無とは何かを知ることもなかったような気がする。
ツインレイといっしょにいる期間で、私たちは『何も望まないこと』『差別をしないこと(みかけで判断しないこと)』を努力した。
彼は差別をしていたら私とはいっしょにいられなかったし、私は何かを望めば彼といっしょにいることは出来なかった。
だから、私たちは蓋をした。
これはガマンだ。
変われなかったんだと思う。どちらも、自分を変えることが出来なかった。そして相手を変えたくなかった。そのままでいてほしいと思っていた。だから自分を変えようとしていたんだと思う。
でも、未熟だからさ。ガマンするしかできない。いつかは爆発がやってくる。
サイレント期間で私は彼を追いかけた。
その経緯は『ツインレイの関係性』に理由を見つけようとしていたことだと思う。環境や他者に言い訳を求めていた。
「だから仕方ない。」という言い訳をし続けていたんだなァって。
だけど、問題は環境や他者とか、関係性ではない。
問題は自分にあった。
自分に問題があったらうまくいかなかった。
自分は正しいと思っていたわけじゃない、間違えていることはわかっていた。でも、何を間違えているのかがわからない。
だけど、結果。結果は最悪なる結果だ。その結果を、次には活かそうと考えていたけど、どうすればいいのかがわからなかったんだと思う。
問題を環境に探し続け、人に探し続け、彼に探し続け、『ツインレイ』に探し続け。
でも、けっきょく、一周まわって問題は自分に探し、見つけ出すことが出来た。
自分自身が変わらなければならないのに、何も変われなかった自分がいた。
そして、自分の問題点に気づくことがなかなかできていなかった。
ヒントはたくさん転がっていたというのに。いっしょにいる人を見ればよかった。そのなかで我がふりについてを考えればよかった。
心も同じこと。心のふりを直さなければならなかった。
私が、どうして過去の三年間を拒絶しているのか。
それは、その期間に私がなにひとつ変われなかったからだと思う。嫌なんだと思う、向き合えなかった自分が。人が私に色々と押し付けてくるとしか感じられなかった。
でも『押し付けてくる』ほうじゃないんだ、みるべきは。もっと違う角度なんだ。押し付けられているものは空だが、重要なのは空ではない。
もっと他人を見ていかなければならない。もっと観察して、自分を客観的に捉えては同一に認識していなければならない。
自分の心に向き合えなかった。ツインレイの関係性という環境のなかに問題を探そうとしていた自分がいた。
違うよね、問題って人それぞれ違うよね。ふたりの関係性なんだもん、ふたりしかわからないはずだよね。『ツインレイの関係性』っていうツインレイのなかに答えはない。自分のなかにしかない。
他人ってさ、他人の視点であって、自分の視点ではないんだよ。本当のところを知ることはない。
ふたりの関係性をよくしたいと思うのであれば、自分が変わっていかなければならない。思想を変えていかなきゃいけない。
その三年間も「そういう期間もあった。」と思って受け入れていこうと思う。無駄にしちゃいけない経験だと思う。だけど、すべてが無駄なことだったなァと思う。
この経緯なくば、今の私はいないけど、その経緯そのものが無駄なあがきで。だけど、やっぱり間違えてみないとわからないなァって気分。
どう変わればいいのかもわからなかったのもあるし、最後の最後に導き出されたのは空だ。この空があったから私の世界は答えを導き出すことができるまでにいたった。だけど、ちょっとレベルが高いと思う。自分でもなんで、仏教・・・・? とか思ってるぐらいには。
ツインレイに仏教の話なんて読んだことないよ。(仏教は突き詰めると心理学の話だね。)
多くの人と関わっていたのに、私はその期間でなにも変わらなかった。自分を変えられなかった。
なんなら、変わらないままでも生きていける世のなかなんじゃないかな。
だけど、私は変わろうと思う。自分を変えていくことができる人になろうと思う。心を組み替え、存在の在り方を変え、私は変化していこうと思う。
人に変化を望むとき、私は自分のなかにある問題と向き合おう。変化は自分に望む、それは私の行動で示すことができる。
無願を取り入れることにするよ。
人を変えることは出来ない、でも自分を変えることは出来る。だけど、どこを変えるべきかは自分で気づいていかなければならない。
あと、ひとつ気づいたことがある。
私が進む道っていうのは、誰も教えてくれない領域ってこと。
私は私で気づいていく。どこの経典を読んだって、私の道はないし、誰に聞いたって誰も教えてくれない。
私が進む道は自分で切り開いていくために、私はやっぱり考え続けなければならないんだと思う。人のことも、自分のことも。
参考までにどうぞ。これを自身の当たり前にまで落とし込むまでが大事なんだが、人それぞれの空・無願・無相があっていいと思っている。
空・・・・押し付けられた他人の勝手な幻想のこと。幻想に意味はない、他人のいっている絵空事や空想、幻想に振り回されないこと。
無願・・・・人を変えることはできない、自分を変えることができる。善悪二元論はここで気づくことができる。自身に偏る善があるとき、嫌悪が生まれる。他者に嫌なところを直してほしいと願わなくなる。
無相・・・・他者と自分は同じである、差別がない。同じであるからこそ、他者を通じて見える『同じ問題』を理解することができる。この思想がある限り、他者を攻撃することはない。
ちなみに、六道っていう地獄の概念から脱出するために、この三門(空・無願・無相)を突破しないといけないっていう。
六道ってのは自分の心が環境や他者によってクルクル変わってしまう、他者に依存した人生になることでもある。六道を解脱することによって、自分の人生を歩むことができる。
まんま、ツインレイの思想やん。
天道(てんどう)有頂天の心、すぐに落ちる。
人間道(にんげんどう)四苦八苦の心。人はここでようやく説法が聞ける。苦しみを受け取り、自分の問題と向き合う心。
修羅道(しゅらどう)自分の思い通りにならないときに怒る心。(瞋恚)
畜生道(ちくしょうどう)愚痴ばかりの心。(愚痴)
餓鬼道(がきどう)あれもこれもどれも欲しい貪欲な心。(貪欲)
地獄道(じごくどう)怒り、人を苦しめようと思い、害を及ぼそうとする心。
人間と修羅が対峙するんだが、人間の立ち位置にい続ける人もいれば、有頂天に登ったり、畜生、餓鬼、地獄に落ちていく人もいる。
このサイレント期間で六道の旅行でもしてたんかな・・・・・・。六道のうち、畜生餓鬼地獄、修羅の状態にならないように私は気を付けていたような気がする。
そういう自分にならないように自制をしていた? のかなと思う。がんばれたかな。
ちなみに、ニートだと畜生道に落ちるらしいぜ。
まかせろ。あたいは来世なんになる~、めだか~めだかになる~。
最近、虚空蔵菩薩の話を書いていたけど、この六道はお地蔵さんね。お地蔵さんは虚空蔵菩薩と対峙しているらしい。
つまり、地を知らねば空を知ることも出来ぬということのようである。