自分の発言と心に向き合ってみた。
自分の発言と向き合ってみようと思う。
他者へのラベリングは自分へのラベリングである。
記憶がある限りの数件のラベリングを思い出し、反省をしていこうと思う。
このサイレント期間でのことである。
お前は男を差別している、見下していると言われた。これは他者からのラベリングである。そして、その人自身が自分の心で行っていることだ。(私が女性が男性のことでなやんでいるときに慰めていたのが気に食わなかったのだと思われる?よくわからぬ。)
これは問題は無い。が、問題はそのとき自分がその人に思っていたことである。
私が思っていたのは、その人は感情的な女性を否定して見下しバカにしている、理性的な自分(男性)を優位な存在だと思っている、と思っていた。
これが私がその人に思っていたことだ。
しかし、私が言葉にしなかったのは、特にそれが問題だとは思っていなかった。そういう人もいるよなーって感じ。
他者も自分も、相手への印象は同じだったりするもんだなと思った。
で。
私が抱えている心の問題はこれである。
感情的な女性を否定して見下しバカにしている、理性的な男性(自分)を優位な存在だと思っている
∩(´;ヮ;`)∩ンヒィィィィィ
身に覚えがある。
我が家の女性陣は感情優位型で思い通りにならないとキーキー怒っているんだ。
普通に見下していたかもしれない、サルじゃあるまいし、と。(我が家の女性はキーってすれば周囲の人間、主に父がオロオロして女性陣の思い通りにしてくれる。私は「怒りで人を操作するな、いい加減にしろよ」とキレる。)
だから私も感情優位になってキー! ならないように気をつけているところがある。
つまり感情コントロールを失っている人たちを私は見下しているし、好きだとは思っていない。
だけど、私にもその側面があることに気づかなければならない。(ちなみにわかっているから、そんなに咎めたりもないんだが、これはこれでまた問題って感じだと思う。)
それから私はこういった。
あなたのお眼鏡にかなわなければ、その人を排除するんだね。
と。当時は負け惜しみのようなセリフだったが、今の私である。
今の私は関わりたくない人とは関わらないことにしたわけである。私のお眼鏡にかなわなければ、私は人を受け入れないことにした。面倒ごとが多すぎる。(関わらん方がお互いのためであることもある。)
何回もツインレイの彼と「話し合え」って言われ続けたんだが、その人こそが自分の伴侶と話し合えばいいわけだ。
私は話し合いに応じて貰えないと発言していたが、当時から拒絶していたんだと思われる。
人のやり方をおし付けられまくられ、追い詰められ、私はヽ(`Д´)ノキー私はお前じゃない! となったら、怒っている姿の私を「おまえの本性」と言われたわけである。
私の本性は他者の人生を押し付けられたら、ブチギレるってことのようだが、間違いないだろう。
私の本性は他者の人生を歩むことではないからだ。押し付けられたらキレるわ。
(やらなかったら、やれ、やれとうるさいんだ。やるかやらないかは私が決めている。)
あと言われた事なんだが「話を聞くかどうかを人によって変えている」とも言われた。なんの話かと思ったが、私のその感想だ。
当たり前である。窃盗をし続けている人の話を聞きたいとは思わない。それが人だろう。
もし窃盗をしたいならば聞こうと思う。適材適所ってあると思うぜ。
私の幻想的感想としては、自分の話を聞いてくれないっていうのを言いたいんだと思うんだが、これを私のせいにしたんだと思う。
聞いてもらいたいんだったら聞いてもらえるだけの存在になれよってこと。そうじゃないから聞いてもらえない。
ちなみに私は文章を書くのも話をするのも好きだが、私の話を聞けとは思わない。ゴミクズの話だからな、でも参考になりそうなら持ってけよって思う。
感謝の話ね。
感謝ばかりして、相手が嫌がっていることよりも自分が気分がいいからってことで感謝し続けている人に、感謝して自分が気持ちいいから人を利用しているのっておかしくない? って話をした。
私もいくつか自分勝手に感謝してたなーと思った。それってやっぱり自己満足だよな、と。
感謝って基本的に全部自己満足だ。
だけど、私が怒っていたのは「感謝をすることが正しいという押し付け」である。
そして他者に感謝を強要して、ありもしない「人のおかげ」を生み出していた。今日の天気がいいのは私のおかげじゃないよってこと。雲に感謝しろってこと。
的外れの感謝って、度々やるよなーと思った。私もつい先日、やってたわ。(理由は、もういいんだよってことと、自分を責めないでねって意味だけど。)
批難して、間違えてるぜって指摘すると、全部、身に起きるっていうメカニズムが起きている。
今回、サイレント期間で、いくつか他者を批難したところがある。
だけどそれって自分にもあるよ? ってことで、他人へ押し付けたラベリングは常に自分へのラベリングっていうサイクルをずーっとやっている。
それらが明確にわかりやすく行われていた。
また、自分が「悪」として定義してるものを自身が体現することにより、自由を手にいれ続けているのだと思う。
善の道は不自由だったと今ならばわかるが、その道以外にやり方を知らないからやるしかなかったとも言える。
悪を悪として人を批難する前に、自分の振りみてみろ、自分も悪だろう。
少なからず、人の失敗は我が失敗。目くじらたてて叱るなよってことかもしれない。
修羅の道だったような気がする。
しっぺ返しというよりも「自分の持つ正義と道理は諸刃の剣」のようなことを学ばさせられていた。
そのなかでじゃあ、今の私の悪は何かっていうと。
自分を省みないこと、かな。
省みること、が善かな。
初歩の初歩だと思う。
だけど、今まで以上に難易度があがっている感じ。
自分の心から見えている悪を受け取り、人から言われた悪は考慮し、場合によっちゃ受け取らないということ。
今までの人生では、人に与えられた悪をずっと受け取っていた。
他者との関係で上手くいかないとき、人の言葉を聞いて直そうとしたりしていたけど、それには一理あるけど的外れにもなっている。
次からは自分の心が持っている悪を使って自分を磨くって感じだ。
その時に、空、無願、無相が役に立つ。
人にとやかく言われても、空の心でいよう。
人に願わず、自分が変わろう。
人と自分は違うと、差別をやめよう。
他者を通じてしか自分を知ることができない。そんな自他世界に生きることが面白いものだという感覚が「人類愛」なんだろうな。
でも、ツインレイと出会う前に、すでに出来ていたようなことなんだが「意味が違う」気がする。
あのときできていたのは、二元論上のものだったんだと思う。
二元性のもとにはできていなかった。
だからこのような不始末だらけとなってしまったわけである。
空で人の失敗は気にしていなかったが、それはそれで問題となっていたって感じ。自分の失敗を許し続けている状態。
人って失敗しかしねえからな(*’д’*)
なんなら、自分の失敗と他人の失敗を全部受け入れているからこそ、次のレベルアップがきた気分。
本当の優しさって悪の中にしかなくて、その悪を使うことでしか人の心には寄り添えない。
だけど、寄り添いたいと思う人は分別していこうと思う。だって、その優しさを理解出来ずに「悪」として糾弾されたいとは思わないから。
ちなみに、ほかに自分が他人に何をラベリングしたのかは忘れた。忘れているから、考えなくていいんだろうな、と思う。
記憶のなかにないっていうことは消化されているってことだから。
上記は意味がわからなくて未消化だったものなんだと思う。
今はまだ少し始まったばかりで、自分のなかでは不安定な思想だけど、これからもう少し煮詰めて練って、実行して――。そんな風にしていこうと思う。
変化していく。私は常に思想を組み替えていく。変わりゆく心だ。
多くの人が「学び」と言っているものだが、私の学びっていうのは、こんな感じなんだろうね。
学びって用語が私は嫌いなんだが、私はずっと学んでいる。ずっと考えているんだと思う。
どうしたらいいのかを。
でも学んでいない人って、私がわかっていないって思うみたい。それは自分がわかっていないんだと思う。
私もツインレイの彼に、最後に「わかっていない」と言っていたが、私がわかっていなかったのである。
そして彼は「できない」と言った。彼はできるのである。しかし、やろうとしないのである。