他者という概念が戻ってきた。みんな同じで良いことを受け入れる。
どうして皆、自分と私を比べているんだろう。その答えをこの数年間で理解することが出来なかった。
それは、私自身が『自己』という概念であり、ツインレイの彼が『他者』という概念を担当していたからのようである。
私は他者愛という概念の道を行き、彼は自己愛という概念の道のなかにいた。
彼はとてもオリジナルだったのだと思う。自己を貫きとおして研究をし続けていた人だったんだなァと理解する。
そのとき『他者』という概念が、彼のなかにはなかった。人のなかには『他者と自己』のふたつの概念が成立するはずなのに、彼と私は『他者』『自己』のふたりに分離しているツインレイとなってしまった。
ゆえ、私はサイレント期間で『自己のみ』となり、個人の追求を進めていたようである。
ツインレイのステージに関しても、個人の追求を進めていたのだなと思う。だからこそ『みんな違うことは当たり前』という個人による視点があるからこそ、他人を受け入れているところがあった。
自己を極めぬけば、みんな違ってみんないいと言わんばかりの金子みすゞになるようだ。
けっきょく、私は『みんな違って、みんなそれでいい』という考えのもと、サイレント期間を過ごしていたが、他者にとってはそうは問屋が卸さないわけである。
最終的な結論だ。
それは、私はみんなと同じ存在でいいってことだ。
みんなと変わらないツインレイのステージでいいし、みんなと変わらない同じベクトルでいい。
みんなと同じでいいことを受け入れたとしても、私は私の人生を歩んでいるから、誰かのコピーになんてならないってこと。
私自身がツインレイの件でも、私は誰かよりも良いツインレイ、幸せなツインレイになりたいわけじゃないんだって思った。
私はみんなと同じような存在であるツインレイになりたいんだ。
自分が特別にならなくてもいい、自分が一番にならなくてもいいし、自分がオリジナルではなくてもいい。
いわば、私は『他者と自己』のうち『自己だけ』だったから、ずっと『特別』『一番』『オリジナル』(なんなら唯一無二)だったんだけど、他者からすれば、別にそれが『まがいもの』『五番』『二番煎じ』(おなじ)とかになっていることもある。
でも、それでも、私が『私と言う存在』を加えるだけで、私自身はずっと『ひとつだけのオリジナル』になれる。
他者からみれば、同じものであり、私が偽物であることもある。でも、それでいい。私は他者からすれば取るに足らない存在であり、この地球のなかのひとつの駒でいい。
だけど、自己からみれば、まるで違う世界がまっている。私はたったひとりの特上なオリジナルな存在だ。
どうしてか、このサイレント期間で『正しい』『間違い』の両極端を浴びせられてきたけど、私は『他者からして、みんなと同じでいい』ってことにする。
私の存在は正しくもないし、間違いでもない。みんなと同じ存在だ。
私の人生は正しくもないし、間違いでもない。同じ人としての人生を歩んでいる。
そうか。彼くんが他者だったんだ。だから私は、彼に愛されている感覚を取り戻している。
私にとっての他者とは、彼だ。彼を取り戻すことは、私にとっての他者の概念を取り戻すことなんだ。
そんなことを理解して。
私は、みんなと同じ存在になる。
自他の意識のうち、他者から自己をみたとき、私はみんなと同じだ。
だけど、自己から他者をみたとき、みんな違う。
このふたつの両方を大事にしていきたい。同じことを大事にして、違うことも大事にしたい。
どっちが正しいかじゃない。同じところもあるし、違うところもあって、両方とも大事なんだってこと。
どの角度から見ているのかの違いってだけ。