天使と悪魔の相関性についてとツインレイの絶望と無について

天使と悪魔の相関性についてとツインレイの絶望と無について

2023年6月4日(日曜日)

先に述べておくが、私は悪魔に対しては『恐い』『話していると、人を攻撃してくる人』である。

天使に対しては『めんどくさい』『話していると、人を攻撃してくる人』である。

私自身は彼らに対して好きでもないし、嫌いでもないわけである。

図の説明:天使と悪魔の相関図

しかし、彼らは私に対して、悪魔は嫌い。そして天使は好きというカタチに着地していた。実体というものは『私』である。

いわば、実体がなければ好きも嫌いもないわけである。私自身が好かれ、嫌われていた理由は私自身に『実』があるわけで『実体』が存在していたためである。

つまり、私という実体がなくなれば、天使も悪魔もいなくなるわけだが、私はとても実体的だったのだと思われる。

私には心があったからだ、実体とは『心という実体』である。

図の説明:天使と悪魔による否定と肯定

天使と悪魔は、私を『否定』し『肯定』していた。いわば、私自身に対しての否定と肯定を、自身の好きと嫌いで表現していたようである。

どちらも表現技法が違うだけである。

自分のことが好きな分だけ私を肯定し、自分のことを嫌いな分だけ私を否定している。そして、悪魔は私を『否定する手法』をもっており、天使は私を『肯定する手法』をとっている。

どちらも手法が違うだけであり、自分自身のなかにある否定と肯定の同居にある。また、そのどちらを手に取って他者を見るのか? という視点の違いに過ぎない。

図の説明:天使と悪魔による好きと嫌いの錯綜

このとき、悪魔は『好きな自分を否定』し、天使は『嫌いな自分』を否定する。

図の説明:天使と悪魔による自己否定と自己肯定

天使は好きな自分を否定しているがゆえに、実体に対して『否定』するのである。

悪魔は好きな自分を肯定しているがゆえに、実体に対して『肯定』するのである。

さて、この相関性だが、どちらも同じことをしている。ただ見ている角度が違うだけで、本質的には同じことをしている。

つまり本質は同じことをしている。自分のために実体を道具にしていたぶっているということだ。

『自己否定』と『自己肯定』の共存により生じる、この天使と悪魔をなんといえばいいのかわからないが、どちらも本質は同じことだということ。

 

この天使と悪魔は『私と言う題材』に対してどのような見解をしているのかというと『好きだし嫌い』なのである。どこに否定があり、どこに肯定があるのかっていう違いがあるだけ。

では、この実体が抜け出したとき、天使と悪魔は『対象者』を失うわけである。そうなったらどうなるのか? 否定もできないし、肯定も出来ない。自分を投影することが出来てようやく天使と悪魔は成立している。

いわばこれを『コンプレックス』というのである。

図の説明:好きと嫌いの相関性

では天使と悪魔はお互いのことをどのように思っているのかについてを書こうと思う。

天使は悪魔が嫌いである、悪魔は天使が好きである。この事実を隠すことができるのが『実体』である。実体を通すことによって隠れることができるのである。

そして、天使と悪魔はたがいを実態を通してみている。

天使は実体を通して悪魔を見ると、嫌いである。実体が好きになる。

悪魔は実体を通して天使を見ると、好きである。実体が嫌いになる。

で、この問題に一番にネックになっているが、私である。私と言う実態がここにいるからいけないから抜け出した感じでもある。私がいると、ふたりの戦争が終わらない。いわば、天使の隠れ蓑が私である。

私がいれば、悪魔である自分と向き合わないで済むからである。

そして、悪魔も私がいれば好きな自分と向き合わないで済むからである。

けっきょく、私を通して『自分をみなかったことにしている』のである。(で、よくもわからない否定と肯定をされている私である、意味がない。)

悪魔は自分の思い通りにならないと、ガンガン人を否定してくる。それは天使の気質である。

本来の天使は『自分の思い通りじゃなきゃ嫌』なのである。

だから私をつかってツインフレームをツインレイに仕上げてくれと『自分は蒼の現実面を担当している』と言っていた。

しかし、私はそれはそもそも『ツインフレームだ』と思っていたのを天使は『ツインレイ』というカタチに事実を捻じ曲げたのである。いわば、私はただの道具である。

これを私の思想を懐柔していただけである。

そして自分の問題が浮き彫りになるたびに『いいわけ』を繰り返していた。私自身を否定したり、上にあげたり、こきおろしたりして、私の母を怒らせるまでにやっている問題行動がある。

そもそも『自分に問題があるのは人のせいではない』。これに尽きる。

 

天使は自分の思い通りになると、ガンガン人を肯定してくる。これは悪魔の気質である。

本来の悪魔は『相手の思い通りにさせたい、自分の思ういい状態にしたい』のである。

だから何度も『自分はどうしたいのか』と言っていたが、そもそも『自分には価値がない』と思っているのである。ゆえに自分に価値を持たせるために人を道具にして、人を支えている風を装うのである。

しかし、途中で嫌になる、嫌われたと思うと逃げ出すのである。そして、人を否定し始める。そこで自分の経験の否定を始め、すべてをなかったことにして終わらせるのである。

これにより、人を『悪い人間』にしたて『自分をいい人間にしたい』のである。

しかし本質的には『自分は悪い人間になることで、相手をいい存在に仕立て上げている』のである。

そして、自分の問題が浮き彫りになるたびに『自分が悪かった』という。なぜ、悪魔はこんなに過去のことで『これは自分が悪かった』と唱えている理由がわからなかった。

自分に問題があることならば、自分に価値がないことを明確に理解し、受け入れることができる。

そもそも『他人が何していようが関係ないし、自分は関係ない』。これに尽きる。

 

しかし、私が問題はそこではないと思っている。

どちらも共通に欠落している視点がある。『私の視点』である。

私が持っている考え方に対して、彼らの視点で認識すると『好きと嫌い』でしか認識できないんだろう。

しかし、私は他者にたいしても、意見に対しても好き嫌いでなんて判断していないし、それらに対して肯定でもないし、否定でもない。

いわば『どっちでもいい人』である。それはある種の日和見主義的な思想を持っている人だ。

なんで、その場その場で自分の意見を組み替え、最終的に『すべてが間違っている』っていう状態になっても「ウケる。」で終わるのか。

そりゃ、私は私に『価値なんて求めていない』からである。

 

悪魔は自分に価値がないことで悩み、同じように天使は自分に価値がないことで悩んでいる。

そこで『価値がある存在になるためにどうしたらいいのか』の解決法があった。

それは『人に好きになってもらうこと』。または『人を支えること』である。

天使も悪魔もどちらも行っていることだ。

だけど、私と言う実態を目の前にしたとき、まざまざと『自分の価値』について突きつけられてしまう事実がある。

私は自分の価値について何も考えていないのである。

悪魔は私に価値を見出しているし、天使は私に価値がないから私を乗っ取って自分の思い通りに懐柔していた。

だけど、私は自分の存在価値に対して『何も考えていないチャランポラン』だったのである。

いわば、悪魔と天使につけ入れられて、ボーッとしているような感じの人だ。実はめちゃくちゃピュアピュアの温室育ちが私である。私は私を『ピュアピュアに育てた』だけで、実際の環境は過酷なもんだったと思うが。

私は自分の価値を『底辺』だと思っている。悪魔も天使も、私に対して『価値がある』と思っていただろう。

悪魔はそれを守りたいと思っていたし、天使はそれを潰したいと思っていた。

悪魔は私がそれに対して価値がないと烙印を押せば、キレた。

天使は私がそれに対して価値があると烙印を押せば、自分がないがしろにされたと怒った。

 

これは『自分の存在価値』についての話をしている。

いわば、天使も悪魔も自分の存在価値がないのである。だから無理くり、私に対して自分の存在価値を生み出してくれと言う話をしていた。

するかボケナスどもめ! っていうのが私でもあるんだが、ピュアピュアな私は『そういっているんだから、そうなんだろう。』って思った。まさか人が私を懐柔したり、私をバッシングしたりするだなんて知らなかった。

そんな存在がいるのかってことにマジで驚いているし、その新事実に対して私は絶句である。なるほど、私は天使に踊らされ、悪魔は私を守ろうとしていたのだな、と。しかし、守れない存在でもあるし、悪魔は私を否定していた。

よくわからない事態である。なぜ彼らは私を否定や肯定する権利があるのかさえ、よくわからないのである。

彼らは『神』なのか、正しい答えを知っている神なのか。

 

じゃあ、私自身が自分の存在価値に対してどう思っているのかである。

私は自分の価値を『底辺』に見積もっている。ゴミクズである。いわば、そんな自分が大好きな私である。これは自己卑下でもない。

ゴミクズだから、否定されても「そうなんだ!」ぐらいで受け入れられる器があるって思えばいい。特にそこに過剰反応がない。いや、この世ってのは自分がすべて正解なんて引き出せないよって思っているから、別に自分が間違ってても当たり前っていう考え方をしている。

で、どういう思想なの? 興味がわく人である。

そして、あなたに価値があるんだよって言われると、実はすんごく嫌な気分になる人。(これ、宗教勧誘でやられたことなんだが「おまえには価値があるんだ」と言われ続けてしつこくてキレたことがある。)

世に価値がある人なんていたのか? っていう考え方をしている。すべての人が『駒』でしょ。どんな功績を残そうが、どんなことを成し遂げようが、首ちょんぱされちゃったら死ぬ、肉体はうんこ製造機なわけである。

そもそもの話、私の話のなかで『世に価値がある人などいない』のである。

だけど、それが私は素晴らしいことだとも思っているのである。

世には意味がない。意味がないからいいのである。世には価値がない、意味もない。だからこそ私たちは自由に創造していくことができるのである。

 

いわばね、天使と悪魔がしていることは、私にとってよくわからないことだったんだよ。

なんで肯定して、なんで否定しているのかがわからなかった。そもそもの話、私は自分の存在価値っていうものについて何も考えていなかったし、自分の価値なんてないに等しくて。

そして『自分がどう生きたのか』。ただそれだけの人生だったんだよね。

私はいつも『人のことを一番に考える人生だった』。私はこの人生を肯定している。私はそんな自分であって、そして、そんな自分を選択し続けることになって、辛いことがたくさんあったけれども、辛いことも乗り越えることが出来た私が大好きなのである。

 

けっきょく、存在価値がないっていう感覚は『自分のことが嫌い』なんだと思う。

自分のことが本当のところは嫌いで、私が私のことを好きなことが羨ましかったんじゃないか、とも考えられる。これは少々、私自身が「羨ましがられていた」だなんて、言葉にごしめにも烏滸がましい予測にしかならないけど。

私は自分の人生の選択を『自分の決断で』『自分の意思で』行ってきた。そして、他者に決断を預けることも、他者の意思を通してしまう自分のことが好きなんだよね。それを意思もってやっている。

そこで他者が間違えようとも私の決断で受け入れていることだから、人をとがめることもないんだ。

このサイレント期間で、天使と悪魔の両方の話を私は聞いていたが、私はどちらの意見をも採用しているところがある。私は別にそれでいいと思っているんだよ。私は間違えていてもいいと思っている。

私の理論からすれば、彼らは間違っていたよ。でも、彼らを肯定したかった。

私はそういう人間だった、そういう人格だった。私はそうやって生きていける優しい人であれてよかったと思っている。

だから私には、このサイレント期間に天使と悪魔と関わったことに対して、なにひとつの後悔がないのである。

過去の理論についても、間違いだらけのつぎはぎだらけ。いや、支離滅裂にもいい加減にしろよ、誤謬過ぎるだろってのがヤバい多すぎる。無駄に人の意見を取り込みすぎて『すべてに辻褄性』をうみだし『すべてを肯定しようとした結果』私の理論は破綻している。

だけど、私はこの理論が好きなんだよ。優しいから。

ここに心があるでしょ。私がどうしたかったのかの結論がある。みんなが大好きっていう私の結論でしかない。

 

私は間違ってていいし、価値がないものでいい。

私はそういう自分でありたいと思っている。そのとき、誰かが正しく誰かに価値がうまれるかもしれない。順列があるとき、私の優しさがあるから私は一番最悪で、一番劣等的な作品を仕上げたに過ぎない。

そんな自分が私は大好きなんだ。

このサイレント期間で、天使と悪魔に好きと嫌いを教え込まれたような気がするが、私は他者に対してやっぱり好きと嫌いで分類することは出来ない。それはやっぱり人のひとつの側面性に過ぎない。

私は私のことが好きだけど、みんなのこともやっぱり好きでありたいって思っているし、みんなことを肯定したいと思っていた。ただそれだけの心だ。私はそういう自分でありたかったっていうだけ。

そんな好きな自分でありたいと思っていたし、私はそういう『出来損ないの自分』が好きなんだ。

悪魔は私の誤謬を指摘し続けた。それはすべて私の優しさの結果だよ。

天使は私の理論を捻じ曲げ続けた。それはすべて私の優しさの結果だよ。

私は思想家として、哲学としても最悪なる存在をうみだした。でも、ここに心だけはある。その心だけが私の大事なもの。

 

悪魔も天使も弱い存在だと思う。

私は彼らに利用されていた。それに気づかなかったのはやっぱり私の落ち度だと思う。

彼らの存在意義のために私は利用されていた。これは紛れもない事実だよ。肯定と否定で私を殴った事実だ。

だけど、私と関わっているなかで、私のために一生懸命頑張ってくれた彼らがいたことも事実だと思っている。

私のために優しくしてくれた彼らがいたことも私は知っている。

私の役に立とうとしても、私はそれを認識することはできない。すべてをとん挫させたのも彼らだったし。

だけど、私に対して優しくしてくれた彼らを私は知っている。

どうか。自分の心が私に対して真っすぐ向いていたときに、私に対して優しくしようと思っていた、その心を認めてあげてほしいと思う。

 

彼らは私の役に何ひとつ立たなかったよ。

だけど、優しかったときもある。

それなのに、存在についてばかり気に取られ『人の心』を失っていたように思う。これが正気じゃないってことだ。

存在って心だよ。そこに心があれば、なんだっていいんだよ。私が今だって意味の分からない理論を書き続けているけど、別にそんなのどうだっていいんだよ。そこに優しささえあれば、私はなんだっていいと思っている。

「あなたの意見が好きだ。」

そう言ってもらえるのって、嬉しいよね。

「あなたの意見は正しい。」

そう言ってもらっても、私は何も嬉しくないよ。正しさなんて時代で切り替わっていくからだ。新しく正しさなんて更新されていく世界だ。世に正しさなんてひとつもないんだよ。

社会のルールだって違う。だけど、私は『あなたが好きだ』と言ってもらえるような優しい人になりたいと思っている。それは永遠だよね。

私は人に好きになってもらいたかった。だから優しい人になりたかった。動機だって同じだよ。

間違えていたっていいと思っている。間違えは常に優しさが生み出すことを彼らが私をもって証明した。

 

人に優しくできる自分に誇りを持ってほしい。

そしてそんな自分を好きになってほしい。

私は、それ以外に何も持っていないよ。私は誰かの役になんて立っていない。それに正しくもない。

私を是非にかけたところで、何にも意味がない。無駄なことだよ。

彼らは自分の存在が欲しいと思っていると思うけど、存在は『無』である向こう側にある。そこにある『心』が存在だ。それが神だ。

正しい人生なんて誰も送らないし、間違えない人はいない。

だけど、心は正しく持つことができる。『どんな自分でい続けるのか』と『自分の心としての誇りを持ち続けること』だ。

天使と悪魔となった汚点はそこにある。

正しさと間違いに振り回されて、自分の心を失った。自分に『価値がなければ』と思想を価値に傾倒させたことににある。

そこに心を失った。それだけのこと。だから私が『正しい』『間違い』でしか認識することが出来ないでいる。

私はどっちでもいいよ。正直、私はこれをやり遂げて楽しかったと思っているし、振り返って、誤謬だらけだなって思うけど、それは甘っちょろい自分がやらかしたことだなって思って。

それが私で、そんな自分が好きだ。

 

だから、私にとって天使と悪魔は『無』なんだよ。

意味がない。その否定も肯定も、どっちにも意味がない。無駄なこと。

私は自分を肯定するために、自分を否定するために理論を立てたわけじゃない。私は『すべてのツインレイ』を肯定するための理論を生み出そうとしていたバカモノである。ありえないことをしようとしていた人だ。

これって意味がないし、無駄だよね?

それをしようとしていた私ってものすごくバカだよね。自分で考えても振り返って壮大過ぎるバカだと思う。

でも、人生でバカやらなくて何やんのよ。人生、ヒマつぶしだよ。一生懸命に自分にできることをやっているだけ。

何かしらの意味がある人生なんて、クッソつまんないと思わない? 意味がないからこそ、私たちは自由なんだよ、創造的なんだよ。

無があるからこそ、そこに『心』が生まれて、その心に従うことが人だよね。

心がある人は無駄なことばっかしてんの。意味があることなんてひとつもしてない。

 

私はこの無を生み出すためにエゴを捨てた。その裏側にある心を手に取った。その心を彼くんとした。

私の彼くんはとてもやさしかった。だけど、虚無を抱えていて、生きる意味を失っていた。それが私だ。それがエゴを捨てた私。

私は無を生み出した人。私がやさしいのは彼くんが優しいからだよ。

彼が絶望を抱えているのは、私が無だからだよ。でも、もう私も心に気づいた。だから彼ももうすぐ絶望から抜けるよ。

この人生に意味などないんだってことに彼は絶望していた。でも、意味がないからいいんだってことに気づいただろう。

きっと、意味のない無駄な私に気づくよ。私はそれを今か今かと待っている。

私は無駄な存在だ、私は無であり、彼にとって価値のない存在だ。だけど、そんな私に気づく。ゴミクズな私に気づくよ。

意味がないよ、すべてにね。意味がないことを私たちは楽しんでいるだけ。そうやって生きるから私たちは無防備に楽しめる。

純粋ってそういうことでしょ。

 

意味を求めること。それこそが無意味なんだよ。

人生には意味がない、その意味がない人生をどういきるか。これがニーチェだね。

私に『自信』っていう概念はないよ。自分なんてないからね、でも心はあるよ、人生を楽しむ心がある。

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